をつくって、いつのまにかそれに慣れてしまったというのほかはあるまい。こんな谷のようなところで、彼は自分の言葉を習ったのである。単にものを見ただけで、それを粗雑ながらも言葉に移したのであるから、習ったといえばいえないこともないかも知れない。そのほかに分数や小数を習い、代数も少し習ったが、その文字などは子供が書いたように拙《まず》いものである。
いかに職務であるとはいえ、こんな谷間の湿《しめ》っぽい所にいつでも残っていなければならないのか。そうして、この高い石壁のあいだから日光を仰ぎに出ることは出来ないものか。それは時間と事情が許さないのである。ある場合には、線路の上にいるよりも他の場所にいることもないではなかったが、夜と昼とのうちで、ある時間だけはやはり働かなければならないのである。天気のいい日に、ある機会をみて少しく高い所へ登ろうと企てることもあるが、いつも電気ベルに呼ばれて、幾倍の心配をもってそれに耳を傾けなければならないことになる。そんなわけで、彼が救われる時間は私の想像以上に少ないのであった。
彼は私を自分の小屋へ誘っていった。そこには火もあり、机の上には何か記入しなければならない職務上の帳簿や指針盤《ししんばん》の付いている電信機や、それから彼がさきに話した小さい電気ベルがあった。わたしの観るところによれば、彼は相当の教育を受けた人であるらしい。少なくとも彼の地位以上の教育を受けた人物であると思われるが、彼は多数のなかにたまたま少しく悧口《りこう》な者がいても、そんな人間は必要でないと言った。そういうことは工場の中にも、警察官の中にも、軍人の中にもしばしば聞くことで、どこの鉄道局のなかにも多少は免《まぬか》れないことであると、彼はまた言った。
彼は若いころ、学生として自然哲学を勉強して、その講義にも出席しているが、中途から乱暴を始めて、世に出る機会をうしなって、次第に零落して、ついにふたたび頭をもたげることが出来なくなった。ただし、彼はそれについて不満があるでもなかった。すべてが自業自得《じごうじとく》で、これから方向を転換するには、時すでに遅しというわけであった。
かいつまんで言えばこれだけのことを、彼はその深い眼で私と火とを見くらべながら静かに話した。彼は会話のあいだに時どきに貴下《サー》という敬語を用いた。殊《こと》に自分の青年時代を語るときに
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