かしら》を下げました。そうして、ほかの女からはまだ一度も聞いたことのないような愛らしい柔らかな、しかし時には銀のような冴えた声で言いました。
「ロミュオーさま。わたしは長い間あなたをお待ち申しておりました。あなたのほうでは、わたしがあなたをお忘れ申していたとでも、思っていらっしゃるに相違ないと思います。それでもわたしは、遠い、たいへんに遠い、誰も二度とは帰って来られないような処《ところ》から参ったのです。そこには太陽もなければ、月もないのです。そこにはただ空間と影とがあるばかりで、通り路もなく、地面もなく、羽で飛ぶ空気もない処です。それでも私は来たのでございます。愛は死よりも強いもので、しまいには死をも征服しなければならないものですから……。ああ、ここまで参るのにどんなに悲しい顔や、怖ろしいものに出逢ったか知れません。わたしの霊魂が、ただ意志の力だけでこの地上に帰って来て、わたしの元のからだを探し求めて、そのなかに帰るまでにはどんなに難儀をしたでしょう。わたしは自分の上に掩いかぶさっている重い石の蓋を引き上げるには、恐ろしいほどの努力を要しました。わたしの掌《て》を見て下さい。こんなに傷だらけになってしまったのです。この上に接吻をして下さい。これが癒《なお》りますように……」
彼女は冷たい手を交るがわるに私の口へあてたのです。わたしは全くいくたびも接吻しました。彼女はその間に、なんとも言われない愛情をもってわたしを見ていました。
恥かしいことですが、わたしはセラピオン師の忠告も、また、わたしの神聖なる職業に任ぜられていることも、全く忘れていました。わたしは彼女が最初の来襲に対してなんの拒絶もなしに服従し、その誘惑をしりぞけるために僅かの努力さえもしませんでした。クラリモンドの皮膚の冷たさが沁み透って、わたしの全身はぞっとするように顫《ふる》えました。憐《あわ》れなことには、わたしはその後にもいろいろのことを見ているにもかかわらず、いまだに彼女を悪魔だと信じることができません。すくなくとも彼女は悪魔らしい様子を持っていないばかりでなく、悪魔がそれほど巧妙にその爪や角を隠すことが出来るはずがないと思っていたからです。
彼女はうしろの方に身を引くと、いかにも倦《だる》そうな魅惑を見せながら長椅子のはしに腰をおろしました。彼女はそれからだんだんに私の髪のなかへ小さい手を差し入れて、髪の毛をくねらしたりして、新しい型が私の顔に似合うかどうかを試みたりしました。
わたしはこの罪深い歓楽に酔って彼女のなすがままに委《まか》せていましたが、その間も彼女は何かと優しい子供らしい無駄話などをしていたのです。何より不思議なのは、こんな普通でないことをしていて、わたし自身が少しも驚かなかったことです。それはあたかも夢をみているとき、非常に幻想的な事柄がおこっても、それは当たり前のこととして別に不思議に思わないようなもので、今のすべての場合もわたし自身には全く自然なことのように思われたのです。
「ロミュオーさま。わたしはあなたをお見かけ申した前から愛していました。そうして、あなたを捜していたのです。あなたは私の夢にえがいていたかたです。教会のなかで、しかもあの運命的な瀬戸ぎわにあなたを初めてお見かけ申したのです。わたしはその時すぐに〈あの方だ〉と自分に言いました。わたしは今までに持っていたすべての愛、あなたのために持つ未来のすべての愛、それは司教の運命も変え、帝王もわたしの足もとにひざまずかせるほどの愛をこめてあなたを見つめたのです。それをあなたは、わたしには来て下さらないで、神様をお選びになったのです……。ああ、わたしは神様がねたましい。あなたは私よりも神様を愛していらっしゃるのです。考えると詰まりません、わたしは不幸な女です。わたしはあなたの心をわたし一人のものにすることが出来ないのです。あなたは一度の接吻でわたしをこの世によみがえらせて下さいました。この死んだクラリモンドを……。そのクラリモンドは今あなたのために墓の戸を打ち開いて来たのです。わたしはあなたに生の喜びを捧げたい、あなたを幸福にしてあげたいと思って来たのです」
それらの熱情的の愛の言葉は、わたしの感情や理性を眩惑《げんわく》させました。わたしは彼女を慰めるために、平気で彼女にむかって「神を愛するほどに愛する」などと、恐るべき不敬なことを言ってしまいました。
彼女の眼はふたたび燃えはじめて、緑玉のように光りました。
「本当でございますか。神様を愛するほどにわたしを愛して下さるの」と、彼女は美しい手を私に巻きつけながら叫びました。「そんなら、わたしと来て下さるでしょう。わたしの行きたい所へ来て下さるでしょう。もう忌《いや》な陰気な商売はやめておしまいなさい。あなたを騎士のうち
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