わたしは烈しい動悸を感じ、こめかみに血ののぼるのを覚え、重い大理石の板をもたげた時のように、ひたいに汗の流れるのを知りました。
 そこに横たわっているのは、まさしくクラリモンドでした。わたしが前にわたしの僧職授与式の日に教会で見た時と少しも違わない、愛すべき彼女でありました。死によって、彼女はさらに最後の魅力を示していました。青白い彼女の頬、やや光沢《つや》のあせた肉色のくちびる、下に垂れた長いまつげ、白い皮膚にきわだって見えるふさふさした金色の髪、それは静かな純潔と、精神の苦難とを示して、なんともいえない蠱惑《こわく》の一面を現わしています。彼女はたけ長い解《と》けた髪に小さい青白い花をさして、それを光りある枕の代りとし、豊かな捲《ま》き毛はさらに露《あら》わなる肩を包んでいます。彼女の美しい二つの手は天使《エンジェル》の手よりも透き通って、敬虔《けいけん》な休息と静粛な祈りの姿を示していましたが、その手にはまだ真珠の腕環がそのままに残っていて、象牙のようななめらかな肌や、その美しい形の丸みは、死の後までも一種の妖艶をとどめていました。
 わたしはそれから言葉に尽くせない長い思索に耽《ふけ》りましたが、彼女の姿を見守っていればいるほど、どうしても彼女はこの美しいからだを永久に捨てたとは思えないのでした。見つめていると、それは気のせいか、それともランプの光りのせいかわかりませんが、血の気のない顔の色に血がめぐり始めたように思われました。わたしはそっと軽く彼女の腕に手をあてますと、冷たくは感じましたが、いつか教会の門でわたしの手にふれた時ほどには冷たくないような気がしました。わたしは再び元の位置にかえって、彼女の上に身をかがめましたが、わたしの熱い涙は彼女の頬をぬらしました。
 ああ、なんという絶望と無力の悲しさでありましょう。なんとも言いようのない苦しみを続けながら、わたしはいつまでも彼女を見つめていたことでしょう。わたしは自分の全生涯の生命をあつめて彼女にあたえたい。わたしの全身に燃えている火焔《ほのお》を彼女の冷たい亡骸《なきがら》にそそぎ入れたいと、無駄な願いを起こしたりしました。
 夜は更《ふ》けてゆきました。いよいよ彼女と永遠のわかれが近づいたと思った時、わたしはただひとりの恋人であった彼女に、最後の悲しい心をこめた、たった一度の接吻《せっぷん》をしないではいられませんでした――。
 おお、奇蹟です。熱烈に押しつけた私のくちびるに、わたしの息とまじって、かすかな息がクラリモンドの口から感じられたのです。彼女の眼があいて来ました。それは以前のような光りを持っていました。それから深い溜め息をついて、二つの腕をのばして、なんともいわれない喜びの顔色をみせながら私の頸《くび》を抱いたのです。
「ああ、あなたはロミュオーさま……」
 彼女は竪琴《たてごと》の音《ね》の消えるような優しい声で、ゆるやかにささやきました。
「どこかお悪かったのですか。わたしは長い間お待ち申していたのですが、あなたが来て下さらないので死にました。でも、もう今は結婚のお約束をしました。わたしはあなたに逢うことも出来ます。お訪ね申すことも出来ます。さようなら、ロミュオーさま、さようなら。私はあなたを愛しています。わたしが申し上げたかったのは、ただこれだけです。わたしは今あなたが接吻をして下すったからだを生かして、あなたにお戻し申します。わたしたちはすぐにまたお逢い申すことが出来ましょう」
 彼女の頭《かしら》はうしろに倒れましたが、その腕はまだわたしを引き止めるかのように巻きついていました。突然に烈しい旋風《つむじかぜ》が窓のあたりに起こって、室《へや》のなかへ吹き込んで来ました。
 白薔薇に残っていた、ただ一枚の葉はちっとの間、枝のさきで蝶《ちょう》のようにふるえていましたが、やがてその葉は枝から離れて、クラリモンドの霊を乗せて、窓から飛んで行ってしまいました。ランプの灯は消えました。私はおぼえず死骸の胸の上に俯伏《うつぶ》しました。

       四

 わたしがわれに返った時、わたしは司祭館の小さな部屋のなかに寝ていました。前の司祭の時から飼ってあるかの犬が、掛け蒲団の外に垂れているわたしの手をなめていました。あとになって知ったのですが、わたしはそのままで三日も寝つづけていたので、その間に少しの呼吸《いき》もせず、生きている様子はちっともなかったそうです。老婆のバルバラの話によると、わたしが司祭館を出発した晩にたずねて来たかの銅色《あかがねいろ》の男が、翌あさ無言でわたしを担《かつ》いで来て、すぐに帰って行ったということです。しかし私がクラリモンドを再び見たかの城のことについて、この近所では誰もその話を知っている者はありませんでした。
 ある朝、
前へ 次へ
全17ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング