るのが、老婆のバルバラの提灯で見えました。老婆も一度は驚いて怖れましたが、男は彼女を押し鎮めて、わたしの神聖な仕事についてお願いに来たのであるから、わたしに会わせてもらいたいというのです。
 わたしが二階から降りようとした時に、老婆は彼を案内して来ました。この男はわたしに向かって、非常に高貴な彼の女主人が重病にかかっていて、臨終のきわに僧侶に逢いたがっていることを話したので、わたしはすぐに一緒に行くからと答えて、臨終塗油式に必要な聖具をたずさえて、大急ぎで二階を降りて行きました。
 夜の暗さと区別《わかち》がないほどに黒い二頭の馬が門外に待っていました。馬はあせってあがいていて、鼻から大きい息をすると、白い煙りのような水蒸気が胸のあたりを掩《おお》っていました。男は鐙《あぶみ》をとって、わたしをまず馬の上にのせてくれましたが、彼は鞍の上に手をかけたかと思うと忽《たちま》ちほかの馬に乗り移って、膝で馬の両腹を押して手綱《たづな》をゆるめました。
 馬は勇んで、矢のように走り出しました。わたしの馬は、かの男が手綱を持っていてくれましたので、彼の馬と押し並んで駈けました。全くわたしたちはまっしぐらに駈けました。地面はまるで青黒い長い線としか見えないようにうしろへ流れて行き、わたしたちの駈け通る両側の黒い樹樹《きぎ》の影は混乱した軍勢のようにざわめきます。真っ暗な森を駈け抜ける時などは、一種の迷信的の恐怖のために、総身《そうみ》に寒さを覚えました。またある時は馬の鉄蹄《てってい》が石を蹴って、そこらに撒《ま》き散らす火花の光りが、あたかも火の路を作ったかと疑われました。
 誰でも、夜なかのこの時刻に、わたしたちふたりがこんなに疾駆《しっく》するのを見たらば、悪魔に騎《の》った二つの妖怪と間違えたに相違ありますまい。時どきにわれわれの行く手には怪しい火がちらちらと飛びめぐり、遠い森には夜の鳥が人をおびやかすように叫び、また折りおりは燐光のような野猫の眼の輝くのを見ました。
 馬は鬣《たてがみ》をだんだんにかき乱して、脇腹には汗をしたたらせ、鼻息もひどくあらあらしくなってきます。それでも馬の走りがゆるやかになったりすると、案内者は一種奇怪な叫び声をあげて、またもや馬を激しく跳《おど》らせるのでした。
 旋風《つむじかぜ》のような疾走がようやく終わると、多くの黒い人の群れがおびただしい灯に照らされながら、たちまち私たちの前に立ち現われて来ました。わたしたちは大きい木の吊り橋を音を立てて渡ったかと思うと、二つの巨大な塔のあいだに黒い大きい口をあいている、円《まる》屋根ふうのおおいのある門のうちに乗り入れました。わたしたちがはいると、城のなかは急にどよめきました。松明《たいまつ》をかかげた家来どもが各方面から出て来まして、その松明の火はあちらこちらに高く低く揺れています。わたしの眼はただこの広大な建物に戸惑《とまど》いしているばかりであります。幾多の円柱、歩廊、階段の交錯、その荘厳《そうごん》なる豪奢、その幻想的なる壮麗、すべてお伽噺《とぎばなし》にでもありそうな造りでした。
 そのうち黒ん坊の召仕《ページ》、いつかクラリモンドからの手紙をわたしに渡した召仕が眼に入りました。彼はわたしを馬から降ろそうとして近寄ると、頸《くび》に金のくさりをかけた黒いビロードの衣服をつけた執事らしい男が、象牙《ぞうげ》の杖をついて私に挨拶するために出て来ました。見ると、涙が眼から頬を流れて、彼の白い髯《ひげ》をしめらせています。彼は行儀よく頭《かしら》をふりながら、悲しそうに叫びました。
「遅すぎました、神父さま。遅すぎましてございます。あなたが遅うございましたので、あなたに霊魂のお救いを願うことは出来ませんでした。せめてはあのお気の毒な御遺骸にお通夜を願います」
 かの老人はわたしの腕をとって、死骸の置いてある室《へや》へ案内しました。わたしは彼より烈《はげ》しく泣きました。死人というのは余人《よじん》でなく、わたしがこれほどに深く、また烈しく恋していたクラリモンドであったからです。
 寝台の下に祈祷台が設けられてありました。銅製の燭台に輝いている青白い火焔《ほのお》は、あるかなきかの薄い光りを暗い室内に投げて、その光りはあちらこちらに家具や蛇腹《じゃばら》の壁などを見せていました。
 机の上にある彫刻した壺の中には、あせた白|薔薇《ばら》がただ一枚の葉を残しているだけで、花も葉もすべて香りのある涙のように花瓶の下に散っています。毀《こわ》れた黒い仮面《めん》や扇、それからいろいろの変わった仮装服が腕椅子の上に置いたままになっているのを見ると、死がなんの知らせもなしに、突然にこの豪奢な住宅に入り込んで来たことを思わせました。
 わたしは寝台の上に眼をあげる勇気
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