自己の大なる力を信ずるような、一種の無慈悲な落ちつきかた――。
 わたしはその裏をあらためてみようと思って、機械的にその肖像画を裏がえすと、そこにはペンタクル(五芒星形)が彫刻してあった。ペンタクルの中央には階子《はしご》の形があって、その三段目には一七六五年と記されていた。さらに精密に検査しているうちに、わたしは弾機《ばね》を発見した。その弾機を押すと、額《がく》のうしろは蓋《ふた》のように開いた。その蓋の裏には「マリアナが汝《なんじ》に命ず。生くる時も死せる時も――に忠実なれ」と彫刻してあった。
 誰に忠実なれというのか、その人の名はここにしるさないが、それは私にも心当たりがないではなかった。わたしは子供のときに老人から聞かされたことがある。かれは人の眼をくらます偽《にせ》学者で、自分の家のなかで自分の妻とその恋がたきとを殺して逃走したために、約一年間もロンドン市中を騒がしたのであった。しかし、わたしはそれをJ氏に語るのを厭《いと》うて、そのまま額の裏をとじてしまった。
 金庫のうちの第一の抽斗をあけるのは、別にむずかしくもなかったが、第二の抽斗をあけるには非常に困った。錠をおろしてあるのではないが、どうしてもあかないので、結局その隙間《すきま》へ鑿《のみ》の刃を挿《さ》し込んで、ようようにこじあけると、抽斗のなかには、はなはだ簡単な化学機械が順序正しくならんでいた。
 小さな薄い書物――むしろ書板《タブレット》というべき物の上に、ガラスの皿を置いてあって、その皿には清らかな液体がみたされていた。液体の上には磁石のような物が浮かんでいて、その磁石の針は急速に廻転するのであった。しかし普通の磁石が示す方向とはちがって、天文学者が惑星を指示するものとあまり異っていない七つの奇妙な文字がしるされていた。抽斗は木でしきられていて、それが榛《はん》の木のたぐいであることを後に知ったが、その抽斗の中から一種特別な、しかも強烈でもなく、また不愉快でもないような匂いが発して来た。
 その匂いの原因はなんであるか知らないが、とにかくにそれが人間の神経に感じるもので、J氏と私ばかりでなく、この部屋に居あわせた二人の職人も、指のさきから髪の毛の根までがうずくように感じたのであった。
 タブレットの詮議を急ぐので、わたしはその皿を取りのけると、磁石の針は非常の急速力をもって廻転をはじめて、私は思わずその皿を床の上に取り落としてしまうほどに、全身に一種の衝動《ショック》を感じた。皿が毀《こわ》れると、液体も流れ出して、磁石は部屋の隅にころがった。――と思うと、その瞬間に、あたかも巨人の手をもって揺すぶるように、四方の壁があちらこちらへと揺れ出した。
 職人たちはおどろいて、初めにこの部屋へ降りて来たところの階子《はしご》へ逃げあがったが、それぎりで何事も起こらないのを見て、安心して再び降りて来た。
 やがて私がタブレットをひらくと、それは銀の止め金の付いた普通の赤いなめし[#「なめし」に傍点]皮に巻かれていて、そのなかにはただ一枚の厚い皮紙を入れてあった。皮には二重のペンタクルが書いてあって、そのなかに昔の僧侶が書いたらしい語がしるしてあった。それを翻訳すると、こうである。
[#ここから2字下げ]
――この壁に近づく者は、有情と非情と、生けると死せるとを問わず、この針の動くが如くにわが意思は働く。この家に呪いあれ。ここに住む者は不安なれ――
[#ここで字下げ終わり]
 そのほかにはなんにもなかった。J氏はそのタブレットと呪文を焼き捨て、さらにその秘密の部屋とその上の寝室とをあわせて、土台下からすべて切り取ってしまった。そこでJ氏も勇気が出て、彼自身がこの家に一カ月ほども平気で住んだ。
 そうなると、こんな閑静な、居ごこちのいい家《いえ》はロンドンじゅうにもめったにないというので、彼は相当に儲けて貸すことになったが、借家人はけっして苦情を言わなかった。



底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全6ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング