へ帰って、今度こそは辛抱する気で落ちついていると、また例の官女が枕もとへ出てくる。そうすると無暗に市野が恋しくなる。我慢が仕切れなくなってまた飛び出すと、途中でまた悪い奴に出逢って、暗い魔窟へ投げ込まれる。そういうことがたび重なって、しまいには兄の方でも尋ねて来ない。こっちからも便りをしない。音信不通で幾年を送るあいだに、女は流れ流れて門司の芸妓になった。
 あいまい茶屋の女が、ともかくも芸妓になったのだから、彼女としては幾らか浮かび上がったわけだが、そのうちに彼女は悪い病いにかかった。一種の軽い花柳病だと思っているうちに、だんだんにそれが重ってくるらしいので、抱え主もかれに勧め、彼女自身もそう思って、久しぶりで兄のところへ便りをすると、兄の良次はまた迎いに来てくれた。そうして抱え主も承知の上で、ひとまず実家へ帰って養生することになって、七月の十二日に六年ぶりで故郷に近い停車場に着いた。
 僕とおなじ馬車に乗込んだのはその時のことで、それは前にも言った通りだ。

     五

 その後のことについて、おむつという女はこう説明した。
「御存じの通り、途中で馬車の馬が倒れて、あなた方がその介抱をしているうちに、わたくしはどこへか姿を隠してしまいましたが、あれは初めから企《たく》んだことでも何でもないので、わたくしは勿論、兄と一緒に帰るつもりだったんです。ところが、途中まで来ると、路ばたの百姓家に腰をかけて何か話している人がある。それが確かに市野さんに相違ないんです。十四のときに別れたぎりですけれど、わたくしの方じゃあ決して忘れやあしません。馬車の窓からそれを見て、わたくしがはっ[#「はっ」に傍点]と思う途端に、まあ不思議ですね、馬車の馬が急に膝を折って倒れてしまいました。
 それからみんなが騒いでいるうちに、わたくしはそっと抜けて行って、だしぬけに市野さんの前に顔を出すと、こっちの姿がまるで変っているので、男の方じゃあすぐには判らなかったらしいんですが、それでもようように気がついて、これは久し振りだということになりました。けれども、こんなところを兄に見付けられてはいけないというので、市野さんはわたくしを引っ張って、その家の裏手の方へまわると、そこには唐もろこしの畑があるので、その唐もろこしの蔭にかくれてしばらく立ち話をしているうちに、馬の方の型が付いて、あなたと兄は歩き出したので、それをやり過ごして、わたくし共はあとからゆっくり帰って来たんです。
 その途中で、市野さんといろいろ話し合いましたが、あの人はその後に薬学校を卒業して、薬剤師の免状を取って、自分の家へ帰って立派に商売をしているそうで、昔の事をひどく後悔していると言って、しきりに言い訳をしたり、あやまったりするので、過ぎ去ったことを今さら執念ぶかく言っても仕方がないと思って、わたくしももう堪忍してやることにしました。市野さんはわたくしの病気を気の毒がって、それも昔にさかのぼればやっぱり自分から起ったことだと言って、わたくしが家へ帰っているあいだは幾らかの小遣いを送ってくれるように言っていました。
 それでその時は無事に別れて、わたくしは兄よりもひと足おくれて家へ帰りましたが、わたくしの病気は重いといっても、ずっと寝ているようなわけでもないので、あくる朝、久し振りに川の堤へあがって、芒のなかをぶらぶら歩いていると、足もとに近い水の上に薄白《うすじろ》と薄むらさきの小さい花がぼんやりと浮いて流れているのが眼につきました。幽霊藻が相変らず咲いていると思うと、不思議にそれが懐かしいような気になって、そこらに落ちている木の枝を拾って、その藻をすくいあげて、まあどういう料簡でしょう、その濡れた草を自分のふところへ押し込んだのです。ちょうど七年前に、市野さんがわたくしの懐ろへ押し込んだように……。その濡れて冷たいのが、きょうは肌にひやり[#「ひやり」に傍点]として、ひどくいい心持なので、わたくしは着物の上から暫くしっかりと抱きしめているうちに、また急に市野さんが恋しくなって来ました。
 前にも申す通り、わたくしは所々方々を流れ渡っている間、一度も市野さんに逢ったこともなく、今度帰って来たからといって、再び撚《よ》りを戻そうなぞという料簡はなかったんですが、この幽霊藻を抱いているうちに、又むらむらと気が変って、すぐに町まで行きました。そうして、市野さんを表へ呼び出すと、市野さんは迷惑そうな顔をして出て来まして、お前のような女がたずねて来ては、両親の手前、近所の手前、わたしが甚だ困るから、用があるなら私の方から出かけて行くと言うんです。では、今夜の七時ごろまでに尾花川の堤まで来てくれと約束して別れて、その時刻に行ってみますと、約束通りに市野さんは来ていました。向うではわたくしがお金の催促
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