》はその相談ながらに、今夜桐沢さんのところへ出かけて行ったのですが、どういうことに決まりますかねえ。」
多代子が帰省を嫌うのは、山陽線の列車の中で又もや何かの蛇さわぎに出逢うのを恐れているのではないかと、私はふと思い浮かんだので、それを奥さんにささやくと、奥さんも同感であるらしかった。
「実はわたしも、もしやと思って、それとなく多代子さんに訊いて見たのですが、本人は一向にそんなことを言わないのです。もっとも隠しているのかも知れませんが……。あなたもそういうお考えならば、もう一度、良人に話してみましょうか。」
「およしなさい。」と、わたしは遮《さえぎ》った。「そんなことを言っても駄目ですよ。先生はとても受付ける筈はありませんよ。現にこのあいだもあの通りでしたから。」
「それもそうですが……。」と、奥さんも思い煩うように見えた。「なにしろ本人がどうしても忌だというものを、無理に帰してやるわけにも行きますまいからねえ。」
「多代子さんはどうしているんです。」
「やはり下の八畳に……。娘と一緒に机を列《なら》べているのです。」
「別に変った様子も見えませんか。」
「ほかには別に変ったことも……。」
奥さんがこう言いかけた時に、階子《はしご》をあがって来る足音がひびいた。と思う間もなく、、襖《ふすま》の外から若い男の声がきこえた。
「奥さん、御来客中をまことに失礼ですが……。」
「あ、透さん。いつお出でなすったの。」と、奥さんは見返った。「構いません。おはいりなさい。」
襖をあけて、電燈の下に蒼白い顔をあらわしたのは、学生風の青年であった。私はその青年をひと目見て、彼が多代子の兄の三好透であることを直ぐに覚ったが、相手の方ではもう私を見忘れているらしかった。殊に今夜の彼はひどく亢奮《こうふん》しているらしく、私に向ってはなんの会釈もせずに、突っ立ったままで奥さんに話しかけた。
「奥さん。妹はあしたの朝の汽車で連れて帰ります。」
「あしたの朝……。多代子さんも承知したのですか。」
「承知しても、しないでも、直ぐに連れて帰ります。」と、彼は奥さんに食ってかかるように声をとがらせた。
「まあ、おかけなさい。」と、奥さんは逆らわずに椅子をすすめた。「どうしてそんなに急に帰ることになったのです。実はそのことで、良人《うち》は今夜桐沢さんのところへ行っているのですが……。」
「先生がなんと仰しゃっても、桐沢さんがなんと言っても、多代子は連れて帰ります。」と、彼はきっぱりと言い切った。その顔色のいよいよ蒼ざめて来たのが、わたしの注意をひいた。
「それにしても、まあ少しお待ちなさい。もうやがて良人も帰って来ましょうから。」と、奥さんはなだめるように言った。そうして、その話題を転ずるように、改めて私を彼に紹介したが、彼はやはり私を記憶していないらしかった。
わたしは笑いながら言い出した。
「あなたにはお目にかかった事がありますよ。山陽線の汽車の中で……。」
「山陽線の汽車の中で……。」
「蛇の騒ぎがあった時に……。」
こう言って、わたしはその顔色を窺うと、彼も睨《にら》むように私の顔をじっと見つめていたが、やがて漸く思い出したように、少しくその顔色をやわらげた。
「いや判りました。その節はどうも失礼をいたしました。あなたもここの先生の家へお出入りをなさる方とはちっとも知りませんでした。いや、今夜も少し気が急《せ》いていましたので、どうも失礼をいたしました。」
彼は繰返して失礼を謝していた。わたしも若いが、彼はさらに若い。一時の亢奮から、なんとなく穏やかならぬ気色《けしき》をみせているが、しょせんは愛すべき一個の青年であることを、私は認めた。彼もわたしには遠慮したのか、あるいはだんだんに神経も鎮まって来たのか、やや落着いたような態度で椅子に腰をおろした。
奥さんが茶を入れかえに立った後で、私はしずかに彼に訊いた。
「唯今伺ったところでは、妹さんを連れてお帰りになるのですか。」
「まあ、そうです。」と、彼はハンカチーフで額の汗を軽く拭きながら答えた。「どうも困りました。」
彼はその以上に何事をも語らないので、なじみの薄いわたしが更に踏み込んで其の秘密を探り出すわけにも行かなかった。それと同時に、私がここに長居することは、彼と奥さんとの用談を妨げる虞《おそ》れがあるらしいので、彼ひとりをそこに残して、わたしは二階を降りて来ると、階段の下で奥さんに逢った。
「今晩はこれでお暇《いとま》します。」
「そうですか。」と、奥さんは気の毒そうな顔をしていた。
「いえ、まだ二、三日はこっちに居りますから、また出直して伺います。」
「では、是非もう一度……。」
奥さんに送られて、わたしが玄関で靴を穿いているときにお嬢さんも出て来たが、多代子は姿を見せなかっ
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング