社用を済ませて、その晩は一泊して、あくる日の午前の汽車に乗込んで広島まで引っ返した。商売上のことはここで説明する必要もないが、私はその商売の都合で再び神戸へ行かなければならない事になったので、広島に暑苦しい一夜をすごして、その明くる日の午前には又もや神戸行きの列車に乗込んだ。残暑のきびしい折柄、同じところを往ったり来たりするのは可なりに難儀であったが、どうも致し方がない。しかもこの上り列車に乗ることに就いて、わたしは一種の興味を持たないでもなかった。
それは今度の列車にも、Kの町から乗り込む人があって、その人が又もや蛇を伴っているかも知れないということであったが、その期待はまったく外《はず》れてしまった。Kの町から乗った人もあり、Fの町で降りた人もあったが、いずれも平穏無事で、なんの人騒がせをも仕出来《しでか》さずに終ったので、わたしはひそかに失望しながら車外をぼんやり眺めていると、Fの駅の改札口をぬけて、十四、五人の乗客がつづいて出て来た。そのなかにあの学生の兄妹《きょうだい》の顔を見いだした時に、わたしは俄かに胸のおどるのをおぼえた。そうして、かれらがきょうも私の車室へ乗込むことを願っていると、二人はあたかも絲《いと》にひかれるように、わたしの車室へ入り込んで来たので、占めたと思って見ていると、あいにく車内には空席が多かったので、かれらはわたしよりも遠く離れた隅の方の席に腰をおろした。
それでも二人はわたしを見付けて、遠方から黙礼した。わたしも黙礼した。さりとて馴《な》れなれしく其の近所へ席を移すわけにも行かないので、わたしは残念ながら遠目に眺めているほかはなかった。
かれらが今日もここから乗込んだのを見ると、おとといは次の駅でいったん下車して、さらに下り列車に乗りかえてFの町へ引っ返し、きのう一日は自宅にとどまって、きょうの午前に再び出て来たものらしく思われた。かれらの服装も行李もすべて先日の通りであった。私はなお注意して窺うと、兄も妹もその顔色が先日よりも更によくない。殊に妹の顔は著るしく蒼ざめているように見えた。
かれらはKの町から続々乗込んで来る蛇の群れに悩まされているのではないかなどと、私はいろいろの空想をめぐらしながらひそかにその行動を監視していたが、かれらの上に怪しいような点も見いだされなかった。妹は黙って俯向《うつむ》いていた。兄も黙って車外をながめていた。
岡山でわたしは例のごとくに弁当を買った。かの兄妹も買った。その以外に、かれらの行動について私の記憶に残っているようなことはなかった。私はきょうも神戸で降りた。兄妹も下車した。かれらはおそらく新橋行きの列車に乗換えたのであろう。その後のことは勿論わたしに判ろう筈もなかった。
その翌年には日露戦争が始まって、わたしの勤めている門司支店は非常に忙がしかった。それが済むと、すばらしい好景気の時代が来た。明治四十年の四月、わたしは社用を帯びて上京して、約三ヵ月ばかりは東京の本社の方に詰めていることになった。
なにしろ久し振りで東京へ帰って来たのである。時は四月の花盛りで、上野には内国勧業博覧会が開かれている。地方からも見物の団体が続々上京する。天下の春はほとんど東京にあつまっているかと思われるような賑わいのなかに、わたしも愉快な日を送っていた。
しかし遊んでばかりはいられない。わたしは毎日一度はかならず出社する以外に、東京にある親戚や先輩や友人をたずねて、平素の無沙汰ほどきをしなければならないので、働くと遊ぶの暇をみて諸方へ顔出しをすることも怠らなかった。そのあいだに、わたしは江波先生をしばしば訪ねた。
先生は法学博士で、わたしが大学に在学中はいろいろのお世話になったことがある。その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩《おお》うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。第一回の訪問は四月の第一日曜日であったと記憶しているが、先生も奥さんもみな壮健で、二階の十畳の応接室へ通された。そこは日本の畳の上に絨緞《じゅうたん》を敷いて、椅子やテーブルを列《なら》べてあるのであった。
やがて若い女が茶を運んで来た。奥さんが自身に菓子鉢を持って来た。若い女はすぐに立去ったが、奥さんは先生とわたしに茶をついでくれた。
「あの方はお家《うち》のお嬢さんじゃありませんな。」と、わたしは訊いた。
「娘じゃありません。」と、奥さんは笑いながら答えた。「娘は少し風邪を引いて二、三日前から寝ています。あの人は多代子さんといって、よそから預かっているのです。」
「多代子さん……。もしやあの方は広島県の人じゃありませんか。Fの町の……。」
「ええ。」と、奥さんは先生と顔を見合せた。「よく御存じですね。」
「じゃあ、やっぱりそうでしたか。どうも
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