がなんと仰しゃっても、桐沢さんがなんと言っても、多代子は連れて帰ります。」と、彼はきっぱりと言い切った。その顔色のいよいよ蒼ざめて来たのが、わたしの注意をひいた。
「それにしても、まあ少しお待ちなさい。もうやがて良人も帰って来ましょうから。」と、奥さんはなだめるように言った。そうして、その話題を転ずるように、改めて私を彼に紹介したが、彼はやはり私を記憶していないらしかった。
わたしは笑いながら言い出した。
「あなたにはお目にかかった事がありますよ。山陽線の汽車の中で……。」
「山陽線の汽車の中で……。」
「蛇の騒ぎがあった時に……。」
こう言って、わたしはその顔色を窺うと、彼も睨《にら》むように私の顔をじっと見つめていたが、やがて漸く思い出したように、少しくその顔色をやわらげた。
「いや判りました。その節はどうも失礼をいたしました。あなたもここの先生の家へお出入りをなさる方とはちっとも知りませんでした。いや、今夜も少し気が急《せ》いていましたので、どうも失礼をいたしました。」
彼は繰返して失礼を謝していた。わたしも若いが、彼はさらに若い。一時の亢奮から、なんとなく穏やかならぬ気色《けしき》をみせているが、しょせんは愛すべき一個の青年であることを、私は認めた。彼もわたしには遠慮したのか、あるいはだんだんに神経も鎮まって来たのか、やや落着いたような態度で椅子に腰をおろした。
奥さんが茶を入れかえに立った後で、私はしずかに彼に訊いた。
「唯今伺ったところでは、妹さんを連れてお帰りになるのですか。」
「まあ、そうです。」と、彼はハンカチーフで額の汗を軽く拭きながら答えた。「どうも困りました。」
彼はその以上に何事をも語らないので、なじみの薄いわたしが更に踏み込んで其の秘密を探り出すわけにも行かなかった。それと同時に、私がここに長居することは、彼と奥さんとの用談を妨げる虞《おそ》れがあるらしいので、彼ひとりをそこに残して、わたしは二階を降りて来ると、階段の下で奥さんに逢った。
「今晩はこれでお暇《いとま》します。」
「そうですか。」と、奥さんは気の毒そうな顔をしていた。
「いえ、まだ二、三日はこっちに居りますから、また出直して伺います。」
「では、是非もう一度……。」
奥さんに送られて、わたしが玄関で靴を穿いているときにお嬢さんも出て来たが、多代子は姿を見せなかっ
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