か見送りつつ揺られて行くのもあった。
 修禅寺に詣でると、二十七日より高祖忌執行の立札があった。宝物一覧を断られたのもこれがためであると首肯《うなず》かれた。
 転じて新井別邸の前、寄席のまえを過ぎて、見晴らし山というのに登った。半腹の茶店に休むと、今来た町の家々は眼の下に連なって、修禅寺のいらかはさすがに一角をぬいて聳《そび》えていた。この茶店には運動場があって、二十歳ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。勿論土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳にまつわる萩や芒がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配が漸く険しく、駒下駄ではとかくに滑ろうとするのを、剛情にふみ堪えて、先《ま》ずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの日にここへ来たのは没怪《もっけ》の幸《さいわい》であった。帰りは下り阪を面白半分に駈け降りると、あぶなく滑って転びそうになること両三度。降りてしまったら汗が流れた。
 山を降りると田甫路《たんぼみち》で、田の畔には葉鶏頭《はげいとう》の真紅なのが眼に立った。もとの路を還らずに、人家のつづく方を北にゆくと、桜ヶ岡の麓を過ぎて、いつの間にか向う岸へまわったとみえて、図らずも頼家の墓の前に出た。きのう来て、今日もまた偶然に来た。おのずからなる因縁浅からぬように思われて、再び墓に香をささげた。
 頼家の墓所は単に塔の峯の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡というそうである。頼家が討たれた後に、母の尼が来り弔《とむら》って、空ゆく月を打仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我子の上よ」と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来《じらい》ここを呼んで指月ヶ岡ということになったとか。蕭条《しょうじょう》たる寒村の秋のゆうべ、不幸なる我子の墓前に立って、一代の女将軍が月下に泣いた姿を想いやると、これもまた画くべく歌うべき悲劇であるように思われた。彼女がかくまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条に移って、北条もまた亡びた。これにくらべると、秀頼と相抱いて城とともにほろびた淀君の方が、人の母としてはかえって幸であったかも知れない。
 帰り路に虎渓橋の上でカーキ色の軍服を着た廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章《きしょう》をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客があるはずであるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買切りにした料見になって、全身を湯に浸しながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、好い心持を通り越して、すこし茫《ぼう》となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
 主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別《わか》ちはないが、昼はやがて夜となった。食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過ごさせ給うであろうと思いやると、我々が問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家の方へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そこらの垣に機織虫《はたおりむし》が鳴いていた。
 わたしの宿のうしろに寄席があって、これも同じ主人の所有である。草履《ぞうり》ばきの浴客が二、三人這入ってゆく。私もつづいて這入ろうかと思ったが、ビラをみると、一流うかれ節三河屋何某一座、これには少しく恐れをなして躊躇《ちゅうちょ》していると、雨がはらはらと降って来た。仰げば塔の峰の頂上から、蝦蟆《がま》のような黒雲が這い出している。いよいよ恐れて早々に宿へ逃げ帰った。
 帰って机にむかえば、下の離れ座敷でまたもや義太夫が始まった。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑《にぎや》かな晩である。十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢れるかと思うような大雨となった。



底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「十番随筆」新作社
   1924(大正13)年4月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング