かつら 働きたくばお前ひとりで働くがよい。父様《ととさま》にも春彦どのにも褒《ほ》められようぞ。わたしはいやじゃ、いやになった。(投げ出すように砧を捨つ)
かえで 貧の手業《てわざ》に姉妹《きょうだい》が、年ごろ擣ちなれた紙砧を、とかくに飽きた、いやになったと、むかしに変るお前がこのごろの素振りは、どうしたことでござるかのう。
かつら (あざ笑う)いや、昔とは変らぬ。ちっとも変らぬ。わたしは昔からこのようなことを好きではなかった。父さまが鎌倉《かまくら》においでなされたら、わたしらもこうはあるまいものを、名聞《みょうもん》を好まれぬ職人|気質《かたぎ》とて、この伊豆《いず》の山家に隠れ栖《ずみ》、親につれて子供までも鄙《ひな》にそだち、しょうことなしに今の身の上じゃ。さりとてこのままに朽ち果てようとは夢にも思わぬ。近いためしは今わたしらが擣っている修禅寺紙、はじめは賤《いや》しい人の手につくられても、色好紙《いろよしがみ》とよばれて世に出づれば、高貴のお方の手にも触るる。女子《おなご》とてもその通りじゃ。たとい賤しゅう育っても、色好紙の色よくば、関白大臣将軍家のおそばへも、召し出《いだ》されぬとは限るまいに、賤《しず》の女《め》がなりわいの紙砧、いつまで擣ちおぼえたとて何となろうぞ。いやになったと言うたが無理か。
かえで それはおまえが口癖に言うことじゃが、人には人それぞれの分があるもの。将軍家のお側近う召さるるなどと、夢のようなことをたのみにして、心ばかり高う打ちあがり、末はなんとなろうやら、わたしは案じられてなりませぬ。
かつら お前とわたしとは心が違う。妹のおまえは今年十八で、春彦という男を持った。それに引きかえて姉のわたしは、二十歳《はたち》という今日の今まで、夫もさだめずに過したは、あたら一生を草の家《や》に、住み果つまいと思えばこそじゃ。職人|風情《ふぜい》の妻となって、満足して暮すおまえらに、わたしの心はわかるまいのう。(空嘯《そらうそぶ》く)
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(楓の婿春彦、二十余歳、奥より出づ。)
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春彦 桂どの。職人風情とさも卑しい者のように言われたが、職人あまたあるなかにも、面作師《おもてつくりし》といえば、世に恥かしからぬ職であろうぞ。あらためて申すに及ばねど、わが
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