こうして置けば誰も覚《さと》る気づかいはない。包孝粛のような偉い人が再び世に出たら知らず、さもなければとても裁判は出来まいといって、みんなが大きい声で笑ったそうだ。それを旅びとの幽霊というのか、魂というのか、ともかくも旅びとの死体が聴いていて、今度ここの劇場で包孝粛の芝居を上演したのを機会に、その名判官の前に姿を現したのだろうというのだ。土工らも余計なことをしゃべったばかりに、みごと幽霊に復讐されたわけさ。シナにはこんな怪談は幾らもあるが、包孝粛は遠いむかしの人だからどうすることも出来ない。そこで幽霊がそれに扮する俳優の前に現れたというのはちょっと面白いじゃないか。いや、話はこれからだんだんに面白くなるのだ。」
K君は茶をすすりながらにやにや笑っていた。雨はいよいよ本降りになったらしく、岸の柳が枯れかかった葉を音もなしに振るい落しているのもわびしかった。
二
わたしは黙って茶をすすっていた。しかし今のK君の最後のことばが少し判らなかった。包孝粛の舞台における怪談はもうそれで解決したらしく思われるのに、彼はこれから面白くなるのだという。それがどうも判らないので、わたしは表をながめていた眼をK君の方へむけて、更にそのあとを催促するように訊いた。
「そうすると、その話は済まないのかね。何かまだ後談《こうだん》があるのかね。」
「大いにあるよ。後談がなければ詰まらないじゃないか。」と、K君は得意らしくまた笑った。「今の話はここへ来たので思い出したのさ。その後談はこの西湖のほとりが舞台になるのだから、そのつもりで聴いてくれたまえ。その包孝粛に扮した俳優は李香とかいうのだそうで、以前は関羽《かんう》の芝居を売物にして各地を巡業していたのだが、近ごろは主として包孝粛の芝居を演じるようになった。そうして広東の三水県へ来て、ここでも包孝粛の芝居を興行していると、前にいったような怪奇の事件が舞台の上に出来《しゅったい》して、王家の塚を発掘することになったのだ。土工の連累《れんるい》者は十八人というのであるが、何分にも数年前のことだから、そのうちの四人はどこかへ流れ渡ってしまって行くえが判らない。残っている十四人はみな逮捕されて重い処刑が行われたのはいうまでもない。たとい幽霊の訴えがあったにもせよ、こうして隠れたる重罪犯を摘発し得たのは、李香の包孝粛によるのだからというので、県令からも幾らかの褒美が出た。王の家でも自分の墓所に他人の死体が合葬されているのを発見することが出来たのは、やはり李香のおかげであるといって、彼に相当の謝礼を贈った。県令の褒美はもちろん形ばかりの物であったが、王家は富豪であるからかなりの贈り物があったらしい。」
「こうなると、幽霊もありがたいね。」
「まったくありがたい。おまけにそれが評判になって、包孝粛の芝居は大入りというのだから、李香は実に大当りさ。李香の包孝粛がその人物を写し得て、いかにも真に迫ればこそ、冤鬼《えんき》も訴えに来たのだろうということになると、彼の技芸にも箔《はく》が付くわけで、万事が好都合、李香にとっては幽霊さまさまと拝み奉ってもよいくらいだ。彼はここで一ヵ月ほども包孝粛を打ちつづけて、懐ろをすっかり膨《ふく》らせて立去った――と、ここまでの事しか土地の者も知らないらしく、今でもその噂が炉畔の夜話に残っているそうだが、さてその後談だ。それから李香はやはり包孝粛を売物にして、各地を巡業してあるくと、広東の一件がそれからそれへと伝わって――もちろん、本人も大いに宣伝したに相違ないが、到るところ大評判で興行成績も頗《すこぶ》るいい。今までは余り名の売れていない一個の旅役者に過ぎなかった彼が、その名声も俄かにあがって、李香が包孝粛を出しさえすれば大入りはきっと受合いということになったのだから偉いものさ。こうして三、四年を送るあいだに、彼は少からぬ財産をこしらえてしまった。なにしろ金はある。人気はある。かれは飛ぶ鳥も落しそうな勢いでこの杭州へ乗込んで来ると、ここの芝居もすばらしい景気だ。しかし、人間はあまりトントン拍子にいくと、とかくに魔がさすもので、李香はこの杭州にいるあいだに不思議な死に方をしてしまった。」
「李香は死んだのか。」
「それがどうも不思議なのだ。李香はこの西湖のほとりの、我れわれがさっき参詣して来た蘇小小の墓の前に倒れて死んでいたのだ。からだには何の傷のあともない。ただ眠るが如く死んでいるのだ。さあ、大騒ぎになったのだが、彼がなぜこんなところへ来て死んでしまったのか、一向に判らない。なにしろ人気役者が不思議な死に方をしたのだから、世間の噂はまちまちで、種々さまざまの想像説も伝えられたが、もとより取留めた証拠がある訳ではない。しかしその前日の夜ふけに、彼が凄いほど美しい女と手をたず
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