ことがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを蹈み、その混雑を冒《おか》して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套《がいとう》の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、先ごろの天長祝日に町内の青年団から避難者に対して戸ごとに菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んでおくに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店さきで徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走もだんだんに数え日に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにかこうにか潜《くぐ》りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのが頗《すこぶ》る困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提《さ》げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少いところで袖の下からかの花を把《と》り出して、電灯のひかりに照らしてみると、寒菊は先ず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾もかなりに傷《いた》められて、梶原源太が箙の梅という形になっていた。
「こんなことなら、明日の朝にすればよかった。」
 この源太は二度の駈《かけり》をする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋が来て待っていた。
「渋谷の道玄坂辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ」と、彼はいった。
「なんといっても、焼けない土地は仕合せだな。」
こういいながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。
[#地から1字上げ](十二月二十三日)

     三 明治座

 この二、三日は馬鹿に寒い。今朝は手水鉢《ちょうずばち》に厚い氷を見た。
 午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄《にわか》に修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまん中に、死んだ物のように寂寞《じゃくまく》として横《よこた》わっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火の烟《けむり》が威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明しであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍らしそうにそれを眺めている人たちもある。
 足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上《こうじょう》看板がもう揚《あ》がっている。二部興行で、昼の部は『忠信の道行』、『躄《いざり》の仇討』、『鳥辺山心中』、夜の部は『信長記《しんちょうき》』、『浪花の春雨』、『双面《ふたおもて》』という番組も大きく貼り出してある。左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が始めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが始めであるから、その前景気は甚だ盛で、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るともなしにたたずんでいるのである。
 私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、またその上演の番組のことも、わたしはとうから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とかいうような、新しく勇ましい心持が胸一杯に漲《みなぎ》るのを覚えた。
 わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでも已《すで》に百数十回に上っているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむる所とで、わたしは従来自分の作物の上演ということに就てはあまりに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、またさのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の亢奮《こうふん》を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに『鳥辺山心中』と、『信長記』と、『浪花の春雨』と、わたしの作物が三種までも加わっているというばかりでなく、震災のために自分の物一切を失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物かを失わずにいたということを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇はない。わたしは焼跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……」と、そこらに群がっている人の口々から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
 わたしは愉快にそれを聴いた。わたしもそれを待っているのである。少年時代のむかしに復《かえ》って、春を待つという若やいだ心がわたしの胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物《たまもの》である。
「いや、まだほかにもある。」
 こう気が注《つ》いて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はかちかち[#「かちかち」に傍点]と蹈んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取出した。
 震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立退《たちの》くという間際に、書斎の戸棚の片隅に押込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで出た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を叮嚀《ていねい》に調べてみる気も起らなかったが、麻布に一先《ひとま》ず落ちついて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切抜いて保存しておいたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
 それだけでも掴《つか》み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏《まと》めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまでそのままになっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きを一々にひろげて読みかえした。
 わたしは今まで随分沢山の雑文をかいている。その全部のなかから選み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手当り次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古《ほご》同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、何でもかまわずに掻《か》きあつめることにした。
 こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取《はかど》らず、どうにかこうにか片附いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業をしているのであろうなどとも思った。
 さて纏まったこの雑文集の名をなんといっていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにしておいた。これもまた記念の意味に外ならない。[#地から1字上げ](十二月二十五日)



底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「思ひ出草」相模書房
   1937(昭和12)年10月初版発行
初出:「思ひ出草」相模書房
   1937(昭和12)年10月初版発行
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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