る所なし」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
 しかし私の横町にも人家が軒ならびに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡《ひろ》がっている。ここらは震災の被害も少く、勿論火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮に押詰まって、ここらの繁昌と混雑は一通りでない。あまり広くもない往来の両側に、居附きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列《なら》んでいるあいだを、大勢の人が押合って通る。またそのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢《ひ》かれるか、路《みち》ばたの大溝へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは正に数百年のむかしの夢である。
「震災を無事に逃れた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ」と、わたしは家内の者に向って注意している。
 そうはいっても、買い物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲《こ》りたのと、経済上の都合とで、無用の品物は一切買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現れて来て、いつまで経っても果てしがないように思われる。一口に我楽多《がらくた》というが、その我楽多道具をよほど沢山に貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであるということを、この頃になってつくづく悟った。私たちばかりでなく、総ての罹災者は皆どこかでこの失費と面倒とを繰返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍《わざわい》であった。
 その欝憤をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面のぬかるみで、殆《ほとん》ど足の蹈みどころもないといってよい。その泥濘《ぬかるみ》のなかにも露店が出る、買い物の人も出る。売る人も、買う人も、足下《あしもと》の悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空しく引返して来ることがしばしばある。
 しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを蹈み、その混雑を冒《おか》して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套《がいとう》の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、先ごろの天長祝日に町内の青年団から避難者に対して戸ごとに菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んでおくに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店さきで徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
 庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走もだんだんに数え日に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにかこうにか潜《くぐ》りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのが頗《すこぶ》る困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提《さ》げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少いところで袖の下からかの花を把《と》り出して、電灯のひかりに照らしてみると、寒菊は先ず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾もかなりに傷《いた》められて、梶原源太が箙の梅という形になっていた。
「こんなことなら、明日の朝にすればよかった。」
 この源太は二度の駈《かけり》をする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋が来て待っていた。
「渋谷の道玄坂辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ」と、彼はいった。
「なんといっても、焼けない土地は仕合せだな。」
こういいながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。
[#地から1字上げ](十二月二十三日)

     三 明治座

 この二、三日は馬鹿に寒い。今朝は手水鉢《ちょうずばち》に厚い氷を見た。
 午前八時頃に十番の通りへ出てみ
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