も私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書き抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としては頗《すこぶ》る大切なものであるが、今更悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束《おぼつか》なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはり何らかの意義、何らかの形式に於て、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
 わたしの家ではこれまでもあまり正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。その外には、春に対する準備もない。
 わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけるということであるが、元日までには恐らく咲くまい。[#地から1字上げ](大正十二年十二月二十日)

     二 箙《えびら》の梅

[#ここから3字下げ]
狸坂くらやみ坂や秋の暮
[#ここで字下げ終わり]
 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推量《おしはか》られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名が一層幽暗の感を深うしたのであった。
 坂の名ばかりでなく、土地の売物にも狸|羊羹《ようかん》、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬき[#「たぬき」に傍点]というのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかしは狐や狸の巣窟であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とかいわなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕す
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