俗の女はひとりも泊まらないらしかった。
 ただひと組、九月九日の夜に投宿した夫婦連れがある。これは東京から長野の方をまわって来たらしく、男は三十七八の商人体で、女は三十前後の小粋な風俗であったということです。この二人がどうしてここへ降りたかというと、女の方がやはり僕とおなじように汽車のなかで苦しみ出したので、よんどころなく下車してここに一泊して、あくる朝早々に名古屋行きの汽車に乗って行った。女は真っ蒼な顔をしていて、まだほんとうに快くならないらしいのを、男が無理に連れ出して行ったが、その前夜にも何かしきりに言い争っていたらしいというのです。
 単にそれだけのことならば別に子細もないのですが、ここに一つの疑問として残されているのは、その男が大きいカバンのなかに宝石や指輪のたぐいをたくさん入れていたということです。当人の話では、自分は下谷辺の宝石商で家財はみんな灰にしたが、わずかにこれだけの品を持出したとか言っていたそうです。したがって、宿の者の鑑定では、その指輪はあの男が落して行ったのではないかというのですが、九月九日から約十日のあいだも他人の眼に触れずにいたというのは不思議です。また、
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