ているのです。燭台の煌々と明るい広間はただ森閑として、庭に鳴いている虫の声が途切れ途切れにきこえるばかりです。六三郎はもう生きているのか、死んでいるのか判りません。唯さえ蒼白い顔は藍《あい》のように変わってしまって、ただ黙ってうつむいていると、やがて吉五郎はじろりと見かえって、「若けえ人に飛んだお下物《さかな》を見せたが、おめえはあの女を知っているかえ。」と、こう訊いたそうです。知っていると言ったらどうするでしょう。この時に六三郎はなんと返事をすればよかったでしょう。その返事の仕様一つで、自分も女とおなじ運命に陥るのは眼に見えています。
 もし六三郎に勇気があったら、自分もおなじ枕に殺されても構わない、なぶり殺しにされても厭わない。血だらけになった女の死骸をしっかり抱いて、これはわたしを可愛がってくれた女ですと大きい声で叫んだかも知れません。が、六三郎は可哀そうにまだ子供です。またその性質や職業からいっても、そんなことの出来るような強い人間ではありません。実際この女のためならば、命もいらないと思い込んでいるとしても、いざという時にその命を思い切ってそこへ投げ出すことの出来る人間ではありません。で、六三郎は黙っていました。重ねて訊かれた時に、怖々ながら重い口で、「いいえ、存じません。」と、卑怯なことを言ったのです。六三郎は心にもない嘘をついてしまったのです。「ほんとうに知らねえのか。」と、念を押された時にも、「知りません」と、又答えたそうです。
 吉五郎は「むむ、そうか。」と、苦笑いをしたばかりで、別に深く詮議もしなかったそうです。そうして「どうだい、もう一杯やらねえか。」と言って、例の味淋酒を突き付けられたのですが、六三郎はもう夢中で、今度は一杯の味淋酒をひと息にぐっと飲んでしまいました。
 女の死骸はふたたび屏風に隠されて、それからまたいろいろの下物などが出たそうですが、六三郎は箸も付けませんでした。舞台で坐っているよりももっと整然《きちん》とかしこまったままで、吉五郎や子分達がおもしろそうに飲んでいるのをまじまじと眺めていました。そのうちにどこかで一番鶏が歌い始める。「お前も迷惑だろうから、もう帰ったらよかろう。」と吉五郎が言う。ぬくめ鳥のような六三郎はようよう荒鷲の爪から放されて、たくさんの祝儀を貰って、元のように子分たちに送られて帰りました。
 宿の方では六
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