働きません。さっきから寝入った振りをして兄の様子をうかゞっていた新五郎が、いきなり跳ね起きて兄の腕を取押さえてしまったのです。押さえられて、阿部さんはいよ/\焦れ出しました。
「新五郎。邪魔をするな。早く刀を持って来い。」
 新五郎は聴かない振りをして、黙って兄を抱きすくめているので、阿部さんは振り放そうとして身を藻掻きました。
「えゝ、放せ、放せ。早く刀を持って来いというのに……。刀がみえなければ、槍を持って来い。」
 さっきの云い渡しがあるから、新五郎は決して手を放しません。兄が藻掻けば藻掻くほど、しっかりと押さえ付けている。なにぶんにも兄よりは大柄で力も強いのですから、いくら焦っても仕方がない。阿部さんは無暗に藻がき狂うばかりで、おめ/\と弟に押さえられていました。
「放せ。放さないか。」と、阿部さんは気ちがいのように怒鳴りつゞけている。その耳の端では「置いてけえ。」という声がきこえています。
「これ、お幾。兄さんは蝮の毒で逆上したらしい。水を持って来て飲ませろ。」と、新五郎も堪りかねて云いました。
「はい、はい。」
 お幾は阿部さんの手から落ちた茶碗を拾おうとして、蚊帳のなかへからだを半分くゞらせる途端に、その髪の毛が蚊帳に触って、何かぱらりと畳に落ちたものがありました。それは彼の黄楊《つげ》の櫛でした。

「お話は先ずこゝ迄です。」と、三浦老人は一息ついた。「その櫛が落ちると、お幾はもとの顔にみえたそうです。それで、だん/\に阿部さんの気も落ちつく。例の置いてけえも聞えなくなる。先ず何事もなしに済んだということです。お幾は初めに櫛を貰って、一旦は自分の針箱の上にのせて置いたのですが、蝮の療治がすんで、自分の部屋へ戻って来て、その櫛を手に取って再び眺めているところを、急に主人に呼ばれたので、あわてゝその櫛を自分の頭にさして、主人の枕もとへ出て行ったのだそうです。」
「そうすると、その櫛をさしているあいだは美しい女に見えたんですね。」と、わたしは首をかしげながら訊いた。
「まあ、そういうわけです。その櫛をさしているあいだは見ちがえるような美しい女にみえて、それが落ちると元の女になったというのです。」と、老人は答えた。「どうしてもその櫛になにかの因縁話がありそうですよ。しかしそれは誰の物か、とう/\判らずじまいであったということです。その櫛と、置いてけえと呼ぶ声と、そこにも何かの関係があるのか無いのか、それもわかりません。櫛と、蝮と、置いてけ堀と、とんだ三題話のようですが、そこに何にも纏まりのついていないところが却って本筋の怪談かも知れませんよ。それでも阿部さんが早く気がついて、なんだか自分の気が可怪《おか》しいようだと思って、前以て弟に取押方をたのんで置いたのは大出来でした。左もなかったら、むやみ矢鱈に刀でも振りまわして、どんな大騒ぎを仕出来《しでか》したかも知れないところでした。阿部さんはそれに懲りたとみえて、その後は内職の釣師を廃業したということです。」
 なるほど老人の云った通り、この長い話を終るあいだに、躑躅見物の女連は帰って来なかった。
[#改段]

落城の譜

       一

「置いてけ堀」の話が一席すんでも、女たちはまだ帰らない。その帰らない間にわたしは引揚げようと思ったのであるが、老人はなか/\帰さない。色々の話がそれからそれへはずんで行った。
「いや、あなたが昨日おいでになると、丁度こゝに面白い人物が来ていたのですがね。その人は森垣幸右衛門と云って――明治以後はその名乗りを取って、森垣|道信《みちのぶ》というむずかしい名に換えてしまいましたが――わたくしの久しいお馴染なんです。維新後は一時横浜へ行っていたのですが、その時にかんがえ付いたのでしょう。東京へ帰って来てから時計屋をはじめて、それがうまく繁昌して、今では大森の方へ別荘のようなものをこしらえて、まあ楽隠居という体で気楽に暮しています。なに、わたくしと同じようだと仰しゃるか。どうして、どうして、わたくしなどは何うにか斯うにか息をついていると云うだけで、とても森垣さんの足もとへも寄附かれませんよ。その森垣さんが躑躅見物ながら昨日久しぶりで尋ねてくれて、色々のむかし話をしました。その人にはこういう変った履歴があるのです。まあ、お聴きなさい。」

 わたくしはもうその年月を忘れてしまったのですが、きのう森垣さんに云われて、はっきりと思い出しました。それは文久元年の夏のことで、その頃わたくしは何うも毎晩よく眠られない癖が付きましてね、まあ今日《こんにち》ならば神経衰弱とでも云うのでしょうか、なんだか頭が重っ苦しくって気が鬱《ふさ》いで、なにをする元気もないので、気晴しのために近所の小さい講釈場へ毎日通ったことがありました。今も昔もおなじことで、講釈場の昼席などへ詰めかけている連中は、よっぽどの閑人《ひまじん》か怠け者か、雨にふられて仕事にも出られないという人か、まあそんな手合《てあい》が七分でした。
 わたくしなどもそのお仲間で、特別に講釈が好きというわけでもないのですが、前に云ったような一件で、家《うち》にいてもくさ/\[#「くさ/\」に傍点]する、さりとて的《あて》なしに往来をぶら/\してもいられないと云うようなことで、半分は昼寝をするような積りで毎日出かけていたのでした。それでも半月以上もつゞけて通っているうちに、幾人も顔なじみが出来て、家にいるよりは面白いということになりました。昼席には定連が多いので、些《ちっ》とつゞけて通っていると、自然と懇意の人が殖えて来ます。その懇意のなかに一人のお武家がありました。
 お武家は三十二三のお国風の人で、袴を穿いていませんが、いつも行儀よく薄羽織をきていました。勤番の人でもないらしい。おそらく浪人かと思っていましたが、この人もよほど閑《ひま》な体だとみえて、大抵毎日のように詰めかけている。しかもわたくしの隣に坐っていることも屡※[#二の字点、1−2−22]あるので、自然特別に心安くなりましたが、どこの何ういう人だか云いもせず聞きもせず、たゞ一通りの時候の挨拶や世間話をするくらいのことでした。ところが、ある日の高座で前講《ぜんこう》のなんとかいう若い講釈師が朝鮮軍記の碧蹄館《へきていかん》の戦いを読んだのです。
 明《みん》の大軍三十万騎が李如松《りじょしょう》を大将軍として碧蹄館へくり出してくる。日本の方では小早川隆景、黒田長政、立花宗茂と云ったような九州大名が陣をそろえて待ちうける。いや、とてもわたくしが修羅場をうまく読むわけには行かないから、張扇《はりおうぎ》をたゝき立てるのは先ずこのくらいにして、さて本文に這入りますと、なにを云うにも敵の大軍が野にも山にも満ち/\ているので、さすがの日本勢もそれを望んで少しく気|怯《おく》れがしたらしい。大将の小早川隆景が早くもそれを看て取って、味方の勇気を挫かせないために、わざと後《うしろ》向きに陣を取らせた。こうすれば敵はみえない。なるほど巧いことをかんがえたと講釈師は云いますが、嘘かほんとうか、それはあなたの方がよく御承知でしょう。そこで小早川は貝をふく者に云いつけて、出陣の貝を吹かせようとしたが、こいつも少し怯《おび》えているとみえて、貝を持つ手がふるえている。これはいけない。勇気をはげます貝の音が万一いつもよりも弱いときは、ます/\士気を弱める基《もとい》であると思ったので、小早川自身がその法螺貝を取って、馬上で高くふき立てると、それが北風に冴えて、味方は勿論、敵の陣中までもひゞき渡る。明の三十万騎は先ずこれに胆をひしがれて、この戦いに大敗北をするという一条。それを上手な先生がよんだらば定めて面白いのでしょうが、なにしろ前講の若い奴が、横板に飴で、途切れ途切れに読むのですから遣切れません。その面白くないことおびたゞしい。
 おまけに夏の暑い時、日の長い時と来ているのですから、大抵のものは薄ら眠くなって、いゝ心持そうにうと/\と居睡りを始める。そのなかで、彼のお武家だけは膝もくずさないで聴いています。尤もふだんから行儀のいゝ人でしたが、とりわけて今日は行儀を正しくして一心に聴きすましているばかりか、小早川がいよ/\貝をふくという件《くだり》になると、親の遺言を聴くか、ありがたい和尚様のお説教でも聴くときのように、じっと眼をすえて、息をのみ込んで、一心不乱に耳をすましているという形であるので、わたくしも少し不思議に思いました。しかし根がお武家であるので、こういう軍談には人一倍の興を催しているのかとも思って、深くは気にも留めませんでした。
 七つ(午後四時)過ぎに席がはねて、わたくしはそのお武家と一緒に表へ出て、小半町ほども話しながら来ると、このごろの空の癖で、大粒の雨がぽつり/\と降り出して来ました。西の方には夕日が光っているのですから、大したことはあるまいとは思いながらも、丁度わたくしの家の路地のそばでしたから、兎もかくも些《ちっ》とのあいだ雨やどりをしてお出でなさいと、相手が辞退するのを無理に誘って路地のなかにあるわたくしの家へ連れ込みました。連れて来ていゝ事をしました。ふたりが家の格子をくゞると、ゆう立はぶち撒けるように強く降って来ました。
「おかげさまで助かりました。」
 お武家はあつく礼を云って、雨の晴れるまで話していました。やがて時分時になったので、奴豆腐に胡瓜揉みと云ったような台所料理のゆう飯を出すと、お武家はいよ/\気の毒そうに、幾たびか礼を云って箸をとりました。その時の話に、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるので、それを頼ってこの間から厄介になっているとのことでした。そのうちに雨もやんで、涼しそうな星がちら/\と光って来たので、お武家は繰返して礼を云って帰りました。
 唯それだけのことで、こっちでは左のみ恩にも被せていなかったのですが、そのお武家はひどく義理がたい人とみえて、あくる日の早朝に菓子の折を持って礼に来たので、わたくしもいさゝか恐縮しました。奥へ通して色々の話をしているうちに、双方がます/\打解けて、お武家は自分の身の上話をはじめました。このお武家が前に云った森垣幸右衛門という人で、その頃はまだ内田という苗字であったのです。
 森垣さんは奥州のある大藩の侍で、貝の役をつとめていたのです。いくさの時に法螺貝をふく役です。一口にほら[#「ほら」に傍点]を吹くと云いますけれど、本式に法螺を吹くのはなか/\むずかしい。山伏の法螺でさえ容易でない、まして軍陣の駈引に用いる法螺と来ては更にむずかしい[#「むずかしい」は底本では「むずしい」]ことになっていました。やはり色々の譜があるので、それを専門に学んだものでなければ滅多に吹くことは出来ません。拙者は貝をつかまつると云えば、立派に武士の云い立てになったものです。森垣さんはその貝の役の家に生まれて去年の秋までは無事につとめていたのですが、人間というものは判らないもので、なまじいに貝が上手であったために、飛んでもないことを仕出来すようになったのです。

       二

 貝の役はひとりでなく、幾人もあります。わたくしも素人で詳しいことは知りませんが、やはり貝の師範役というものがあって、それについて子供のときから稽古するのだそうです。森垣さんの藩中では大館《おおだて》宇兵衛という人が師範役でした。その人は貝の名人で、この人が貝を吹くと六里四方にきこえるとか、この人が貝を吹いたら羽黒山の天狗山伏が聴きに来たとか、いろ/\の云い伝えがあるそうです。年を取っても不思議に息のつゞく人でしたが、三年まえに七十幾歳とかいう高齢で死にました。この人に子はありましたが、歯が悪くて貝の役は勤められず、若いときから他の役にまわされていたので、その家にある貝の秘曲を伝え受けることが出来ませんでした。
 わが子にゆずることの出来ないのは初めから判っているので、宇兵衛という人は大勢の弟子のなかから然るべきものを見たてて置きました。見立てられたのが森垣
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