云ってすぐに一両の金を出してやると、久松はそれを持って再び表へ出ましたが、もとの長屋へは行かないで、近所の刀屋へ行って道中指のような脇差を一本買いました。
その脇差をふところに忍ばせて、久松は新乗物町へ行って桂斎先生の出入りをうかゞっていると、日のくれる頃から春雨が音もせずに降って来ました。先生の出て行くところを狙ったのですが、どうも工合が悪かったので、雨にぬれながら親父橋《おやじばし》の袂に立っていて、その帰るところを待ちうけて、今年十五の小僧が首尾よく相手を仕留めたのです。
久松はそれから人形町通りの店へ帰って、平気でいつもの通りに働いていたのですが、間もなく吉五郎という人の手で召捕られました。町奉行所の吟味に対して、あの桂斎という藪医者はおふくろと姉の仇《かたき》だから殺しましたと、久松は悪びれずに申立てたそうです。なにぶんにもまだ十六にも足らない者ではあり、係りの役人達も大いにその情状を酌量してくれたのですが、理窟の上から云えば筋違いで、そんなことで一々かたき討をされた日には、医者の人種《ひとだね》が尽きてしまうわけですから、どうしても正当のかたき討と認めることは出来ないのでした。
「それにしても、母と姉との仇討ならば、なぜすぐに自訴して出なかったか。」と、係りの役人は聞きました。
かたきを討ってから、久松は川づたいに逃げ延びて、人の見ないところで脇差を川のなかへ投げ込んで、自分もつゞいて川へ飛び込もうとすると、暗い水のうえに姉のおつねが花魁《おいらん》のような姿でぼんやりあらわれて、飛び込んではならないと云うように頻りに手を振るので、死のうとする気は急に鈍った。かんがえてみると、今こゝで自分が死んでしまえば、おふくろや姉の墓まいりをする者はなくなる。迂濶に死急ぎをしてはならない。生きられるだけは生きているのがおふくろや姉への孝行だと思い直して、早々にそこを立去って、なに食わぬ顔をして主人の店へ戻っていたと、久松はこう申立てたそうです。姉のすがたが見えたか見えないか、それは勿論わかりませんが、或は久松の眼にはほんとうに見えたのかも知れません。
奉行所ではその裁き方によほど困ったようでした。唯の意趣斬にするのも不便、さりとて仇討として赦すわけにも行かないので、一年あまりもそのまゝになっていましたが、安政四年の夏になって、久松はいよ/\遠島ということにきまりました。島へ行ってから何うしたか知りませんが、おそらく赦《しゃ》に逢って帰ったろうと思います。
[#改段]
置いてけ堀
一
「躑躅《つゝじ》がさいたら又おいでなさい。」
こう云われたのを忘れないで、わたしは四月の末の日曜日に、かさねて三浦老人をたずねると、大久保の停車場のあたりは早いつゝじ見物の人たちで賑っていた。青葉の蔭にあかい提灯や花のれんをかけた休み茶屋が軒をならべて、紅い襷の女中達がしきりに客を呼んでいるのも、その頃の東京郊外の景物の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が亀戸《かめいど》の藤、それから堀切《ほりきり》の菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が比較的に交通の便利がいゝ方であるので、下町からわざ/\上《のぼ》ってくる見物もなか/\多かった。藤や菖蒲は単にその風趣を賞するだけであったが、躑躅には色々の人形細工がこしらえてあるので、秋の団子坂の菊人形と相対して、夏の大久保は女子供をひき寄せる力があった。
ふだんは寂しい停車場にも、きょうは十五六台の人車《くるま》が列んでいて、つい眼のさきの躑躅園まで客を送って行こうと、うるさいほどに勧めている。茶屋の姐さんは呼ぶ、車夫《くるまや》は附き纏う、そのそう/″\しい混雑のなかを早々に通りぬけて、つゝじ園のつゞいている小道を途中から横にきれて、おなじみの杉の生垣のまえまで来るあいだに、私はつゝじのかんざしをさしている女たちに幾たびも逢った。
門をあけて、いつものように格子の口へゆこうとすると、庭の方から声をかけられた。
「どなたです。すぐに庭の方へおまわりください。」
「では、御めん下さい。」
わたしは枝折戸をあけて、すぐに庭先の方へまわると、老人は花壇の芍薬の手入れをしているところであった。
「やあ、いらっしゃい。」
袖にまつわる虻《あぶ》を払いながら、老人は縁さきへ引返して、泥だらけの手を手水鉢《ちょうずばち》で洗って、わたしをいつもの八畳の座敷へ通した。老人は自分で起って、忙しそうに茶を淹《い》れたり、菓子を運んで来たりした。それがなんだか気の毒らしくも感じられたので、私はすゝめられた茶をのみながら訊いた。
「きょうはばあやはいないんですか。」
「ばあやは出ましたよ。下町にいるわたくしの娘が孫たちをつれて躑躅を見にくるとこのあいだから云っていたのですが、それが今日の日曜にどや/\押掛けて来たもんですから、ばあやが案内役で連れ出して行きましたよ。近所でいながら燈台下暗しで、わたくしは一向不案内ですが、今年も躑躅はなか/\繁昌するそうですね。あなたもこゝへ来がけに御覧になりましたか。」
「いゝえ。どこも覗きませんでした。」と、わたしは笑いながら答えた。
「まっすぐにこゝへ。」と、老人も笑いながらうなずいた。「まあ、まあ、その方がお利口でしょうね。いくら人形がよく出来たところで、躑躅でこしらえた牛若弁慶五条の橋なんぞは、あなた方の御覧になるものじゃありますまいよ。はゝゝゝゝゝ。」
「しかし、お客来《きゃくらい》のところへお邪魔をしましては。」
「なに、構うものですか。」と、老人は打消すように云った。
「決して御遠慮には及びません。あの連中が一軒一軒に口をあいて見物していた日にはどうしても半日仕事ですから、めったに帰ってくる気づかいはありませんよ。わたくし一人が置いてけ堀《ぼり》をくって、退屈しのぎに泥いじりをしているところへ、丁度あなたが来て下すったのですから、まあゆっくりと話して行ってください。」
老人はいつもの通りに元気よく色々のむかし話をはじめた。老人が唯《た》った今、置いてけ堀をくったと云ったのから思い出して、わたしは彼の「置いてけ堀」なるものに就いて質問を出すと、かれは笑いながら斯う答えた。
置いてけ堀といえば、本所七不思議のなかでも、一番有名になっていますが、さてそれが何処だということは確かに判っていないようです。一体、本所の七不思議というのからして、ほんとうには判っていないのです。誰でも知っているのは、置いてけ堀、片葉の芦、一つ提灯、狸ばやし、足洗い屋敷ぐらいのもので、ほかの二つは頗る曖昧です。ある人は津軽家の太鼓、消えずの行燈だとも云いますし、ある書物には津軽家の太鼓を省いて、松浦家の椎の木を入れています。又ある人は足洗い屋敷を省いて、津軽と松浦と消えずの行燈とをかぞえているようです。この七不思議を仕組んだものには「七不思議|葛飾譚《かつしかものがたり》」という草双紙がありましたが、それには何々をかぞえてあったか忘れてしまいました。所詮無理に七つの数にあわせたのでしょうから、一つや二つはどうでもいゝので、その曖昧なところが即ち不思議の一つかも知れません。
そういうわけですから、置いてけ堀だって何処のことだか確かには判らないのです。御承知の通り、本所は堀割の多いところですから、堀と云ったばかりでは高野山で今道心《いまどうしん》をたずねるようなもので、なか/\知れそうもありません。元来この置いてけ堀というにも二様の説があります。その一つは、その辺に悪《わる》旗本の屋敷があって、往来の者をむやみに引摺り込んでいかさま[#「いかさま」に傍点]博奕をして、身ぐるみ脱いで置いて行かせるので、自然に置いてけ堀という名が出来たというのです。もう一つは、その辺の堀に何か怪しい主《ぬし》が棲んでいて、日の暮れる頃に釣師が獲物の魚をさげて帰ろうとすると、それを置いて行けと呼ぶ声が水のなかで微かにきこえると云うのです。どっちがほんとうか知りませんが、後の怪談の方が広く世間に伝わっていて、わたくし共が子供のときには、本所へ釣に行ってはいけない、置いてけ堀が怖いぞと嚇《おど》かされたものでした。
その置いてけ堀について、こんなお話があります。嘉永二年|酉歳《とりどし》の五月のことでした。本所入江町の鐘撞堂の近辺に阿部久四郎という御家人がありまして、非番の時にはいつでも近所の川や堀へ釣に出る。と云うと、大変に釣道楽のようにもきこえますが、実はそれが一つの内職で、釣って来た鯉や鮒はみんな特約のある魚屋へ売ってやることになっているのです。武士は食わねど高楊枝などと云ったのは昔のことで、小身の御家人たちは何かの内職をしなければ立ち行きませんから、みなそれぞれに内職をしていました。四谷怪談の伊右衛門のように傘を張るのもあれば、花かんざしをこしらえるのもある。刀をとぐのもあれば、楊子を削るのもある。提灯を張るのもある。小鳥を飼うのもあれば、草花を作るのもある。阿部という人が釣に出るのも矢はりその内職でしたが、おなじ内職でも刀を磨いたり[#「磨いたり」は底本では「磨いだり」]、魚を釣ったりしているのは、まあ世間体のいゝ方でした。
五月は例のさみだれが毎日じめ/\降る。それがまた釣師の狙い時ですから、阿部さんはすっかり簑笠のこしらえで、びく[#「びく」に傍点]と釣竿を持って、雨のふるなかを毎日出かけていましたが、今年の夏はどういうものか両国の百本|杭《ぐい》には鯉の寄りがわるい。綾瀬の方まで上るのは少し足場が遠いので、このごろは専ら近所の川筋をあさることにしていました。そこで、五月のなかば、何でも十七八日ごろのことだそうです。その日は法恩寺橋から押上《おしあげ》の方へ切れた堀割の川筋へ行って、朝から竿をおろしていると、鯉はめったに当らないが、鰻や鯰《なまず》が面白いように釣れる。内職とは云うものゝ、もと/\自分の好きから始めた仕事ですから、阿部さんは我を忘れて釣っているうちに、雨のふる日は早く暮れて、濁った水のうえはだん/\に薄暗くなって来ました。
今とちがって、その辺は一帯の田や畑で、まばらに人家がみえるだけですから、昼でも随分さびしいところです。まして此頃は雨がふり続くので、日が暮れかゝったら滅多に人通りはありません。阿部さんは絵にかいてある釣師の通りに、大きい川柳をうしろにして、若い芦のしげった中に腰をおろして、糸のさきの見えなくなるまで釣っていましたが、やがて気がつくと、あたりはもう暮れ切っている。まだ残り惜しいがもうこゝらで切上げようかと、水に入れてあるびく[#「びく」に傍点]を引きあげると、ずっしりと重い。
きょうは案外の獲物があったなと思う途端に、どこかで微かな哀れな声がきこえました。
「置いてけえ。」
阿部さんもぎょっとしました。子供のときから本所に育った人ですから、置いてけ堀のことは勿論知っていましたが、今までこゝらの川筋は大抵自分の釣場所にしていても、曽て一度もこんな不思議に出逢ったことは無かったのに、きょう初めてこんな怪しい声を聴いたというのはまったく不思議です。しかし阿部さんは今年二十二の血気ざかりですから、一旦はぎょっとしても、又すぐに笑い出しました。
「はゝ、おれもよっぽど臆病だとみえる。」
平気でびく[#「びく」に傍点]を片附けて、それから釣竿を引きあげると、鈎《はり》にはなにか懸っているらしい。川蝦でもあるかと思って糸を繰りよせてみると、鈎のさきに引っかゝっているのは女の櫛でした。ありふれた三日月型の黄楊《つげ》の櫛ですが、水のなかに漬かっていたにも似合わず、油で気味の悪い程にねば/\していました。
「あゝ、又か。」
阿部さんは又すこし厭な心持になりました。実をいうと、この櫛は午《ひる》前に一度、ひるすぎに一度、やはり阿部さんの鈎にかゝったので、その都度に川のなかへ投げ込んでしまったのです。それがいよ/\釣仕舞というときになって、又もや三度目で鈎にかゝったので、阿部さんも何だか厭な心持になって、うす暗い
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