ました。暑い時分のことですから、醤油が沸いて呑口の筌《せん》が自然に弛《ゆる》んでいたのか、それとも強く投げ出すはずみに、樽に割れでも出来たのか、いずれにしても、醤油が鎧櫃のなかへ流れ出したらしく、平作が自分の粗相をわびて再びそれを担ぎあげようとすると、櫃の外へもその醤油の雫がぽと/\と零れ出しました。
「あ。」
人々も顔を見あわせました。
鎧櫃から紅い水が零れ出す筈がない。どの人もおどろくのも無理はありません。あまりの不思議をみせられて、平作自身も呆気《あっけ》に取られました。
二
まえにも申す通り、武家のよろい櫃の底に色々の物が忍ばせてあることは、問屋場《といやば》の者もふだんから承知していましたが、紅い水が出るのは意外のことで、それが何であるか鳥渡《ちょっと》想像が付きません。こうなると役目の表、問屋《といや》の者も一応は詮議をしなければならないことになりました。今宮さんの顔の色が変ってしまいました。こゝで鎧櫃の蓋をあけて、醤油樽を見つけ出されたら大変です。鎧の身代りに醤油樽を入れたなどと云うことが表向きになったら、洒落や冗談では済まされません。お役御免は勿論、どんな御咎をうけるか判りませんから、家来達までが手に汗を握りました。
問屋場の役人――と云っても、これは武士ではありません。その町や近村の名望家が選ばれて幾人かずつ詰めているので、矢はり一種の町役人です。勿論、大勢のうちには岩永《いわなが》も重忠《しげたゞ》もあるのでしょうが、こゝの役人は幸いにみんな重忠であったとみえて、その一人がふところから鼻紙を出して、その紅い雫をふき取りました。そうしてほかの役人にも見せて、その匂いを鳥渡《ちょっと》かぎましたが、やがて笑い出しました。
「はゝ、これは血でござりますな。御具足櫃に血を見るはおめでたい。はゝゝゝゝ。」
入物《いれもの》が鎧櫃であるから、それに取りあわせて紅い雫を血だという。ほんとうの血ならば猶更詮議をしなければならない筈ですが、そこが前にもいう重忠揃いですから、何処までもそれを紅い血だということにして、そのまゝ無事に済ませてしまったので、今宮さん達もほっとしました。
「重ねて粗相をするなよ。」
役人から注意をあたえられて、平作は再び鎧櫃をかつぎ出しました。今宮さんは心のうちで礼を云いながら駕籠に乗って、三島の宿を離れましたが、どうも胸がまだ鎮まらない。問屋場の者は表向きは無事に済ませてくれたものゝ、蔭では屹《きっ》と笑っているに相違ない。それにつけても、おれに恥辱をあたえた雲助めは憎い奴であると、今宮さんは駕籠のなかゝら駕籠屋に訊きました。
「おれの鎧櫃をかついでいるのは、矢はり問屋場の者か。」
「いえ。あれは宿《しゅく》はずれに出ているかい[#「かい」に傍点]助というのでございます。」と、駕籠屋は正直に答えました。
「そうか。」
実は今宮さんも少し疑っていたことがあるのです。あの人足が鎧櫃を取り落したのは何うもほんとうの粗相ではないらしい、わざと手ひどく投げ出したようにも思われる――と、こう疑っている矢先へ、それが問屋場の者でないと聞いたので、いよ/\その疑いが深くなりました。一所|不定《ふじょう》の雲助め、往来の旅人を苦しめる雲助め、おそらく何かの弱味を見つけておれを強請《ゆす》ろうという下心であろうと、今宮さんは彼を憎むの念が一層強くなりましたが、差当り何うすることも出来ないので、胸をさすって駕籠にゆられて行くと、朝の五つ半(午前九時)前に沼津の宿に這入って、宿はずれの建場《たてば》茶屋に休むことになりました。朝涼《あさすゞ》のあいだと云っても一里半ほどの路を来たので、駕籠屋は汗びっしょりになって、店さきの百日紅《さるすべり》の木の下でしきりに汗を拭いています。四人の家来たちも茶屋の女に水を貰って手拭をしぼったりしていましたが、三人の人足どもはまだ見えないので、若党の勇作は少し不安になりました。
「これ、駕籠屋。あの人足どもは確かなものだろうな。」
「はい。ふたりは大丈夫でございます。問屋場に始終詰めているものでございますから、決して間違いはございません。かい[#「かい」に傍点]助の奴も、お武家さまのお供で、そばにあの二人が附いておりますから、どうすることもございますまい。やがてあとから追い着きましょう。しばらくこゝでお休みください。」と、駕籠屋は口をそろえて云いました。
「むゝ、こちらは随分足が早かったからな。」
「はい。こちら様のお荷物はなか/\重いと云っておりましたから、だん/\に後《おく》れてしまったのでございましょう。」
荷物が重い。――それが店のなかに休んでいる今宮さんの耳にちらりと這入ったので、今宮さんはまた気色を悪くしました。かの鎧櫃の一件を当付けらしく云うようにも聞き取れましたので、すこしく声を暴くして家来をよびました。
「勇作。貴様は駕脇についていながら、荷物のおくれるのになぜ気がつかない。あんな奴等は何をするか判ったものでない。すぐに引返して探して来い。源吉だけこゝに残って、半蔵も勘次も行け。あいつ等がぐず/\云ったら引っくゝって引摺って来い。」
「かしこまりました。」
勇作はすぐに出て行きました。二人の中間もつゞいて引返しました。どの人もさっきの鎧櫃のむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]があるので、なにかを口実に彼の平作めをなぐり付けてゞも遣ろうという腹で、元来た方へ急いでゆくと、二町ばかりのところで三人の人足に逢いました。平作は並木の松の下に鎧櫃をおろして悠々と休んでいるのを、ふたりの人足がしきりに急き立てゝいるところでした。
「貴様たちはなぜ遅い。宿《しゅく》を眼のまえに見ていながら、こんなところで休んでいる奴があるか。」と、勇作は先ず叱り付けました。
勇作に云われるまでもなく、問屋場の人足どもは正直ですから、もう一息のところだから早く行こうと、さっきから催促しているのですが、平作ひとりがなか/\動かない。こんな重い具足櫃は生れてから一度もかついだことが無いから、この暑い日に照らされながら然う急いではあるかれない。おれはこゝで一休みして行くから、おまえたちは勝手に先へ行けと云って、どっかりと腰をおろしたまゝで何うしても動かない。相手がお武家だからと云って聞かせても、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかと、空嘯《そらうそぶ》いて取合わない。さりとて、かれ一人を置いて行くわけにも行かないので、人足共も持て余しているところへ、こっちの三人が引返して来たのでした。
その仔細を聴いて、勇作も赫《かっ》となりました。平作とても大して悪い奴でもない。鎧櫃の秘密を種にして余分の酒手でもいたぶろうという位の腹でしたろうから、なんとか穏かに賺《すか》して、多寡が二百か三百文も余計に遣ることにすれば、無事穏便に済んだのでしょうが、勇作も年が若い、おまけに先刻からのむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]腹で、この雲助めを憎い憎いと思いつめているので、そんな穏便な扱い方をかんがえている余裕がなかったらしい。
「よし。それほどに重いならばおれが担いで行く。」
かれは平作を突きのけて、問題の鎧櫃を自分のうしろに背負いました。そうして、ほかの中間どもに眼くばせすると、半蔵と勘次は飛びかゝって平作の両腕と頭髻《たぶさ》をつかみました。
「さあ、来い。」
三
平作は建場茶屋へ引き摺って行かれると、さっきから苛々して待っていた今宮さんは、奥の床几を起って店さきへ出て来ました。見ると、勇作が鎧櫃を背負っている。中間ふたりが彼の平作を引っ立てゝくる。もう大抵の様子は推量されたので、この人もまた赫となりました。
「これ、そいつがどうしたのだ。」
この雲助めが横着をきめて動かないと云う若党の報告をきいて、今宮さんはいよ/\怒りました。単に横着というばかりでなく、こんなに重い具足櫃はかついだことが無いとか、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかとか云うような、あてこすりの文句が一々こっちの痛いところに触るので、今宮さんはいよ/\堪忍袋の緒を切りました。
「おのれ不埓な奴だ。この宿場の問屋場へ引渡すからそう思え。」
こゝへ来る途中でも、もう二三度は中間共になぐられたらしく、平作は散らし髪になって、左の眼のうえを少し腫らしていましたが、這奴《こいつ》なか/\気の強い奴、おまけ中間どもに撲られて、これもむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]腹であったらしい。立派な侍に叱られても、平気でせゝら笑っていました。
「問屋場へでも何処へでも引渡して貰いましょう。わっしはその荷物が重いから重いと云ったゞけのことだ。わっしも十六の年から東海道を股にかけて雲助をしているから、具足櫃と云うものはどのくらいの目方があるか知っています。わっしを問屋場へ引渡すときに、その具足櫃も一緒に持って行って、どんな重い具足が這入っているのか、役人達にあらためて貰いましょう。」
こうなると、這奴《こいつ》をうっかり問屋場へ引渡すのも考えもので、いわゆる藪蛇のおそれがあります。憎い奴だとは思いながら何《ど》うすることも出来ない。そのうちに店の者は勿論、近所の者や往来の者がだん/\にこの店先にあつまって来て、武家と雲助との押問答を聴いている。中間どもが追い払っても、やはり遠巻きにして眺めている。見物人が多くなって来たゞけに、今宮さんもいよ/\そのまゝには済まされなくなりましたが、前にもいう藪蛇の一件があります。こゝの問屋場の役人たちも三島の宿とおなじような重忠揃いなら仔細はないが、万一そのなかに岩永がまじっていて野暮にむずかしい詮議をされたら、あべこべにこっちが大恥をかゝなければならない。今宮さんは残念ながら這奴《こいつ》を追いかえすより外はありませんでした。
「貴様のような奴等にかゝり合っていては、大切の道中が遅くなる。きょうのところは格別を以てゆるして遣る。早く行け、行け」
もうこっちの内兜を見透しているので、平作は素直に立去らない。かれは勇作にむかって大きい手を出しました。
「もし、御家来さん。酒手をいたゞきます。」
「馬鹿をいえ。」と、勇作はまた叱り付けました。「貴様のような奴に鐚《びた》一文でも余分なものが遣られると思うか。首の飛ばないのを有難いことにして、早く立去れ。」
「さあ、行け、行け。」
中間どもは再び平作の腕をつかんで突き出すと、さっきからはら[#「はら」に傍点]/\しながら見ていた駕籠屋や人足共も一緒になって、色々になだめて連れて行こうとする。なにしろ多勢に無勢で、所詮腕ずくでは敵わないと思って、平作は引き摺られながら大きい声で怒鳴りました。
「なに、首の飛ばないのを有難く思え……。はゝ、笑わせやあがる。おれの首が飛んだら、その具足櫃からしたじ[#「したじ」に傍点]のような紅い水が流れ出すだろう。」
見物人が大勢あつまっているだけに、今宮さんも捨てゝ置かれません。この上にも何を云い出すか判らないと思うと、もう堪忍も容赦もない。つか/\と追って出て、刀の柄袋を払いました。
「そこ退け。」
刀に手をかけたと見て、平作をおさえていた駕籠屋や人足共は、あっと悸《おび》えて飛び退きました。
「えゝ、おれをどうする。」
ふり向く途端に平作の首は落ちてしまいました。今宮さんは勇作を呼んで、茶店の手桶の水を柄杓《ひしゃく》に汲んで血刀を洗わせていると、見物人はおどろいて皆ちり/″\に逃げてしまう。駕籠屋や人足どもは蒼くなって顫えている。それでも今宮さんは流石に侍です。この雲助を成敗して、しずかに刀を洗い、手を洗って、それから矢立の筆をとり出して、ふところ紙にさら/\と書きました。
「当宿の役人にはおれから届ける。勇作と半蔵は三島の宿へ引返して、この鎧櫃をみせて来い。」
こう云いつけて、勇作は何かさゝやくと、勇作は中間ふたりに手伝わせて、彼の鎧櫃を茶屋のうしろへ運んで行きました。そこには小川がながれている。三人は鎧櫃の蓋をあけてみると、醤油樽の底がぬ
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