昼席などへ詰めかけている連中は、よっぽどの閑人《ひまじん》か怠け者か、雨にふられて仕事にも出られないという人か、まあそんな手合《てあい》が七分でした。
わたくしなどもそのお仲間で、特別に講釈が好きというわけでもないのですが、前に云ったような一件で、家《うち》にいてもくさ/\[#「くさ/\」に傍点]する、さりとて的《あて》なしに往来をぶら/\してもいられないと云うようなことで、半分は昼寝をするような積りで毎日出かけていたのでした。それでも半月以上もつゞけて通っているうちに、幾人も顔なじみが出来て、家にいるよりは面白いということになりました。昼席には定連が多いので、些《ちっ》とつゞけて通っていると、自然と懇意の人が殖えて来ます。その懇意のなかに一人のお武家がありました。
お武家は三十二三のお国風の人で、袴を穿いていませんが、いつも行儀よく薄羽織をきていました。勤番の人でもないらしい。おそらく浪人かと思っていましたが、この人もよほど閑《ひま》な体だとみえて、大抵毎日のように詰めかけている。しかもわたくしの隣に坐っていることも屡※[#二の字点、1−2−22]あるので、自然特別に心安くなりましたが、どこの何ういう人だか云いもせず聞きもせず、たゞ一通りの時候の挨拶や世間話をするくらいのことでした。ところが、ある日の高座で前講《ぜんこう》のなんとかいう若い講釈師が朝鮮軍記の碧蹄館《へきていかん》の戦いを読んだのです。
明《みん》の大軍三十万騎が李如松《りじょしょう》を大将軍として碧蹄館へくり出してくる。日本の方では小早川隆景、黒田長政、立花宗茂と云ったような九州大名が陣をそろえて待ちうける。いや、とてもわたくしが修羅場をうまく読むわけには行かないから、張扇《はりおうぎ》をたゝき立てるのは先ずこのくらいにして、さて本文に這入りますと、なにを云うにも敵の大軍が野にも山にも満ち/\ているので、さすがの日本勢もそれを望んで少しく気|怯《おく》れがしたらしい。大将の小早川隆景が早くもそれを看て取って、味方の勇気を挫かせないために、わざと後《うしろ》向きに陣を取らせた。こうすれば敵はみえない。なるほど巧いことをかんがえたと講釈師は云いますが、嘘かほんとうか、それはあなたの方がよく御承知でしょう。そこで小早川は貝をふく者に云いつけて、出陣の貝を吹かせようとしたが、こいつも少し怯《おび》えているとみえて、貝を持つ手がふるえている。これはいけない。勇気をはげます貝の音が万一いつもよりも弱いときは、ます/\士気を弱める基《もとい》であると思ったので、小早川自身がその法螺貝を取って、馬上で高くふき立てると、それが北風に冴えて、味方は勿論、敵の陣中までもひゞき渡る。明の三十万騎は先ずこれに胆をひしがれて、この戦いに大敗北をするという一条。それを上手な先生がよんだらば定めて面白いのでしょうが、なにしろ前講の若い奴が、横板に飴で、途切れ途切れに読むのですから遣切れません。その面白くないことおびたゞしい。
おまけに夏の暑い時、日の長い時と来ているのですから、大抵のものは薄ら眠くなって、いゝ心持そうにうと/\と居睡りを始める。そのなかで、彼のお武家だけは膝もくずさないで聴いています。尤もふだんから行儀のいゝ人でしたが、とりわけて今日は行儀を正しくして一心に聴きすましているばかりか、小早川がいよ/\貝をふくという件《くだり》になると、親の遺言を聴くか、ありがたい和尚様のお説教でも聴くときのように、じっと眼をすえて、息をのみ込んで、一心不乱に耳をすましているという形であるので、わたくしも少し不思議に思いました。しかし根がお武家であるので、こういう軍談には人一倍の興を催しているのかとも思って、深くは気にも留めませんでした。
七つ(午後四時)過ぎに席がはねて、わたくしはそのお武家と一緒に表へ出て、小半町ほども話しながら来ると、このごろの空の癖で、大粒の雨がぽつり/\と降り出して来ました。西の方には夕日が光っているのですから、大したことはあるまいとは思いながらも、丁度わたくしの家の路地のそばでしたから、兎もかくも些《ちっ》とのあいだ雨やどりをしてお出でなさいと、相手が辞退するのを無理に誘って路地のなかにあるわたくしの家へ連れ込みました。連れて来ていゝ事をしました。ふたりが家の格子をくゞると、ゆう立はぶち撒けるように強く降って来ました。
「おかげさまで助かりました。」
お武家はあつく礼を云って、雨の晴れるまで話していました。やがて時分時になったので、奴豆腐に胡瓜揉みと云ったような台所料理のゆう飯を出すと、お武家はいよ/\気の毒そうに、幾たびか礼を云って箸をとりました。その時の話に、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるの
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