なかば、何でも十七八日ごろのことだそうです。その日は法恩寺橋から押上《おしあげ》の方へ切れた堀割の川筋へ行って、朝から竿をおろしていると、鯉はめったに当らないが、鰻や鯰《なまず》が面白いように釣れる。内職とは云うものゝ、もと/\自分の好きから始めた仕事ですから、阿部さんは我を忘れて釣っているうちに、雨のふる日は早く暮れて、濁った水のうえはだん/\に薄暗くなって来ました。
今とちがって、その辺は一帯の田や畑で、まばらに人家がみえるだけですから、昼でも随分さびしいところです。まして此頃は雨がふり続くので、日が暮れかゝったら滅多に人通りはありません。阿部さんは絵にかいてある釣師の通りに、大きい川柳をうしろにして、若い芦のしげった中に腰をおろして、糸のさきの見えなくなるまで釣っていましたが、やがて気がつくと、あたりはもう暮れ切っている。まだ残り惜しいがもうこゝらで切上げようかと、水に入れてあるびく[#「びく」に傍点]を引きあげると、ずっしりと重い。
きょうは案外の獲物があったなと思う途端に、どこかで微かな哀れな声がきこえました。
「置いてけえ。」
阿部さんもぎょっとしました。子供のときから本所に育った人ですから、置いてけ堀のことは勿論知っていましたが、今までこゝらの川筋は大抵自分の釣場所にしていても、曽て一度もこんな不思議に出逢ったことは無かったのに、きょう初めてこんな怪しい声を聴いたというのはまったく不思議です。しかし阿部さんは今年二十二の血気ざかりですから、一旦はぎょっとしても、又すぐに笑い出しました。
「はゝ、おれもよっぽど臆病だとみえる。」
平気でびく[#「びく」に傍点]を片附けて、それから釣竿を引きあげると、鈎《はり》にはなにか懸っているらしい。川蝦でもあるかと思って糸を繰りよせてみると、鈎のさきに引っかゝっているのは女の櫛でした。ありふれた三日月型の黄楊《つげ》の櫛ですが、水のなかに漬かっていたにも似合わず、油で気味の悪い程にねば/\していました。
「あゝ、又か。」
阿部さんは又すこし厭な心持になりました。実をいうと、この櫛は午《ひる》前に一度、ひるすぎに一度、やはり阿部さんの鈎にかゝったので、その都度に川のなかへ投げ込んでしまったのです。それがいよ/\釣仕舞というときになって、又もや三度目で鈎にかゝったので、阿部さんも何だか厭な心持になって、うす暗いなかでその櫛を今更のように透して見ました。油じみた女の櫛、誰でもあんまり好い感じのするものではありません。殊にそれが川のなかから出て来たことを考えると、ます/\好い心持はしないわけです。隠亡堀《おんぼうぼり》の直助権兵衛という形で、阿部さんはその櫛をじっと眺めていると、どこからかお岩の幽霊のような哀れな声が又きこえました。
「置いてけえ。」
今までは知らなかったが、それではこゝが七不思議の置いてけ堀であるのかと、阿部さんは屹《きっ》と眼を据えてそこらを見まわしたが、暗い水の上にはなんにも見えない、細い雨が音もせずにしと/\と降っているばかりです。阿部さんは再び自分の臆病を笑って、これもおれの空耳であろうと思いながら、その櫛を川のなかへ投げ込みました。
「置いていけと云うなら、返してやるぞ。」
釣竿とびく[#「びく」に傍点]を持って、笑いながら行きかけると、どこかで又よぶ声がきこえました。
「置いてけえ。」
それをうしろに聞きながして、阿部さんは平気ですた/\帰りました。
二
小身と云っても場末の住居《すまい》ですから、阿部さんの組屋敷は大縄《おおなわ》でかなりに広い空地を持っていました。お定まりの門がまえで、門の脇にはくゞり戸がある。両方は杉の生垣で、丁度唯今のわたくしの家《うち》のような恰好に出来ています。門のなかには正面の玄関口へ通うだけの路を取って、一方はそこで相撲でも取るか、剣術の稽古でもしようかと云うような空地《あきち》、一方は畑になっていて、そこで汁の実の野菜でも作ろうというわけです。阿部さんはまだ独身で、弟の新五郎は二三年まえから同じ組内の正木という家へ養子にやって、当時はお幾という下女と主従二人暮しでした。
お幾という女は今年二十九で、阿部さんの両親が生きているときから奉公していたのですが、嫁入先があるというので、一旦ひまを取って国へ帰ったかと思うと、半年ばかりで又出て来て、もとの通りに使って貰うことになって、今の阿部さんの代まで長年《ちょうねん》しているのでした。容貌《きりょう》はまず一通りですが、幾年たっても江戸の水にしみない山出しで、その代りにはよく働く。女のいない世帯のことを一手に引受けて、そのあいだには畑も作る。もと/\小身のうえに、独身で年のわかい阿部さんは、友だちの附合や何かで些《ちっ》とは無駄な金もつかうの
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