、この人足も問屋場に詰めているのは皆おとなしいもので、決して悪いことをする筈はないのです。もし悪いことをして、次の宿の問屋場にその次第を届け出られゝば、すぐに取押えて牢に入れられるか、あるいは袋叩きにされて所払いを食うか、いずれにしても手ひどい祟をうけることになっているのですから、問屋場にいるものは先ず安心して雇えるわけです。しかしこの問屋場に係り合のない人足で、彼の伊賀越の平作のように、村外れや宿はずれにうろ付いて客待をしている者の中には、所謂雲助根性を発揮して良くないことをする奴もありました。そんなら旅をする人は誰でも問屋場《といやば》にかゝりそうなものですが、問屋場には公定相場があって負引《まけひき》が無いのと、問屋場では帳簿に記入する必要上、一々その旅人の身許や行く先などを取りしらべたりして、手数がなか/\面倒であるので、少しばかりの荷物を持った人は問屋場の手にかゝらないことになっていました。勿論、お尋ね者や駈落者などは我身にうしろ暗いことがあるから問屋場にはかゝりません。そこが又、悪い雲助などの附込むところでした。
 今宮さんの一行は立派な御用道中ですから、大威張りで問屋場の手にかゝって、荷物をかつがせて行ったのですが、間違いの起るときは仕方のないもので、その前の晩は、三島の宿《しゅく》に幾組かの大名の泊りが落合って、沢山の人足が要ることになったので、助郷《すけごう》までも狩りあつめてくる始末。助郷というのは、近郷の百姓が一種の夫役のように出てくるのです。それでもまだ人数が不足であったとみえて、宿はずれに網を張っている雲助までも呼びあつめて来たので、今宮さんの人足三人のうちにも平作の若いようなのが一人まじっていました。年は三十前後で、名前はかい[#「かい」に傍点]助と云うのだそうですが、どんな字を書くのか判りません。本人もおそらく知らなかったかも知れません。なにしろかい[#「かい」に傍点]助という変な名ではお話が仕にくいから、仮りに平作と云って置きましょう。そのつもりでお聴きください。
 人足どもはそれ/″\に荷物をかつぐ。彼の平作は鎧櫃をかつぐことになりました。担ごうとすると、よほど重い。平作も商売柄ですから、すぐにこれは普通の鎧櫃ではないと睨みました。這奴《こいつ》なか/\悪い奴とみえて、それをかつぐ時に粗相の振をしてわざと問屋役人の眼のまえで投げ出しました。暑い時分のことですから、醤油が沸いて呑口の筌《せん》が自然に弛《ゆる》んでいたのか、それとも強く投げ出すはずみに、樽に割れでも出来たのか、いずれにしても、醤油が鎧櫃のなかへ流れ出したらしく、平作が自分の粗相をわびて再びそれを担ぎあげようとすると、櫃の外へもその醤油の雫がぽと/\と零れ出しました。
「あ。」
 人々も顔を見あわせました。
 鎧櫃から紅い水が零れ出す筈がない。どの人もおどろくのも無理はありません。あまりの不思議をみせられて、平作自身も呆気《あっけ》に取られました。

       二

 まえにも申す通り、武家のよろい櫃の底に色々の物が忍ばせてあることは、問屋場《といやば》の者もふだんから承知していましたが、紅い水が出るのは意外のことで、それが何であるか鳥渡《ちょっと》想像が付きません。こうなると役目の表、問屋《といや》の者も一応は詮議をしなければならないことになりました。今宮さんの顔の色が変ってしまいました。こゝで鎧櫃の蓋をあけて、醤油樽を見つけ出されたら大変です。鎧の身代りに醤油樽を入れたなどと云うことが表向きになったら、洒落や冗談では済まされません。お役御免は勿論、どんな御咎をうけるか判りませんから、家来達までが手に汗を握りました。
 問屋場の役人――と云っても、これは武士ではありません。その町や近村の名望家が選ばれて幾人かずつ詰めているので、矢はり一種の町役人です。勿論、大勢のうちには岩永《いわなが》も重忠《しげたゞ》もあるのでしょうが、こゝの役人は幸いにみんな重忠であったとみえて、その一人がふところから鼻紙を出して、その紅い雫をふき取りました。そうしてほかの役人にも見せて、その匂いを鳥渡《ちょっと》かぎましたが、やがて笑い出しました。
「はゝ、これは血でござりますな。御具足櫃に血を見るはおめでたい。はゝゝゝゝ。」
 入物《いれもの》が鎧櫃であるから、それに取りあわせて紅い雫を血だという。ほんとうの血ならば猶更詮議をしなければならない筈ですが、そこが前にもいう重忠揃いですから、何処までもそれを紅い血だということにして、そのまゝ無事に済ませてしまったので、今宮さん達もほっとしました。
「重ねて粗相をするなよ。」
 役人から注意をあたえられて、平作は再び鎧櫃をかつぎ出しました。今宮さんは心のうちで礼を云いながら駕籠に乗って、三島の宿を離れまし
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