います。わたくしはあとの方に引き退って、紫縮緬の羽織の襟から抜け出したような照之助の白い頸筋を横目にみながら、おとなしく琴をひいて居りましたが、なんだか手の先がふるえて、琴爪が糸に付きませんでした。奥様は照之助と差向いで、芝居のお話などをしていらっしゃいました。
 唯それだけのことでございます。全くそれだけのことでございました。それが物の半時とは経ちません中に、大変なことが出来《しゅったい》いたしました。いつの間にどうして忍んで来たのか知りませんが、彼の稲瀬十兵衛が真先に立って、ほかの四人の侍や若党がこのお居間へつか[#「つか」に傍点]/\と踏み込んでまいりました。それはみんな御上屋敷の人達でございます。わたくしは眼が眩むほどに驚きまして、思わず畳に手をついてしまいますと、侍達は無言で照之助の両手を押さえました。もうどうする事も出来ません。わたくしは竊《そっ》と眼をあげてうかゞいますと、奥様は真蒼な顔をして、口脣《くちびる》をしっかり[#「しっかり」に傍点]結んで、たゞ黙って坐っておいでになりました。照之助の顔色はもう土のようになって、身動きも出来ないように竦んでいますのを、侍達はやはり無言で引立てゝ行きました。出てゆく時に、照之助は救いを求めるような悲しい眼をして、奥様とわたくしの方を二度見かえりましたが、わたくし共にも今更どうすることも出来ないので、唯だまって見送っていますと、侍たちは照之助を引立てゝ縁伝いにお庭口へ降りて、横手の方へ連れて行くようでございました。わたくしも不安心で堪りませんから、そっと起ち上ってお庭へ降りました。照之助がどうなるのかその行末が見とゞけたいので、跫音をぬすんで怖々にそのあとをつけて行きますと、なにしろ外は真暗なので、侍達もわたくしには気が注《つ》かないらしゅうございました。
 御座敷の横手には古い土蔵が二棟つゞいて居ります。照之助はその二番目の士蔵の前へ連れてゆかれますと、土蔵の中にはさっきから待受けている人があるとみえて、手燭の灯が小さくぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と点っていました。わたくしも奥様の御用で二三度この土蔵のなかへ這入ったことがございますが、御屋敷の土蔵だけに普通の町家のよりもずっと大きく出来て居りまして、昼間でも暗い冷たい厭なところでございます。中には大きい蛇が棲んでいるとか云って、お竹やお清に嚇されたこともありましたが、その暗い隅にはまったく蛇でも棲んでいそうに思われました。照之助はその土蔵のなかへ引き摺り込まれたので、わたくしは少し不思議に思いました。
 もしこの河原者を成敗するならば、裏手の空地へでも連れ出しそうなものです。なぜこの土蔵の中までわざ/\連込んだのかと見ていますと、侍のひとりが奥にある大きい長持の蓋をあけました。その長持はわたくしも知って居ります。全体が溜塗《ためぬ》りのようになっていて、角々には厚い金物が頑丈に打付けてございます。わたくしも正面から平気でのぞく訳にはまいりません、壁虎《やもり》のように扉のかげに小さく隠れて、そっと隙見を致しているのですから、暗い土蔵の中はよく見えません。唯《た》った一つの手燭の灯が大勢の袖にゆれて、時々に見えたり隠れたりしているかと思ううちに、その長持の蓋を下す音が高くきこえました。つゞいて錠を下すらしい金物の音ががち[#「がち」に傍点]/\と響きました。そのおそろしい音がわたくしの胸に一々強くひゞいて、わたくしはもう息も出ないようになりました。そのうちに侍達は自分の仕事を済ませて、奥からだん/\に出て来るようですから、わたくしは顫える足を引き摺って早々に逃げて帰りました。そうして、もとの御居間の縁さきから這い上って、怖々に内を覗いてみますと、燈火は瞬きもしないで静かに御座敷を照らしているばかりで、そこに奥様のお姿は見えませんでした。あとで聞きますと、奥様は彼の十兵衛が御案内して、御門の外に待っている御駕籠に乗せられて、すぐに御上屋敷の方へ送り帰されたのだそうでございます。
 照之助は長持に押込まれて、土蔵の奥に封じ籠められてしまいました。奥様は上屋敷へ送られてしまいました。その次にはわたくしの番でございます。どうなることかとその晩はおち/\眠られませんでした。その怖ろしい一夜があけますと、又こゝに一つの事件が出来《しゅったい》していました。お朝が裏手の井戸に身を投げて死んでいるのでございます。いつどうして死んだのか判りません。ひょっとすると、照之助のことが露顕したのは、お朝が十兵衛に密告したのではないかとも思われますが、証拠のないことですから、なんとも申されません。
 わたくしはなんの御咎めも無しに翌日長のお暇になって、早々に親許へ退りましたが、照之助はどうなりましたか、それは判りません。生きたまゝで長持に封じ籠め
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