す通り、この時代の職人や仕事師には、どうしても喧嘩と刺青との縁は離れない。とりわけて裸稼業の駕籠屋の背中に刺青がないと云うのは、亀の子に甲羅が無いのと同じようなもので、先ず通用にはならぬと云っても好いくらいです。いくら大きい店の息子株でも、駕籠屋は駕籠屋で、いざと云うときには、お客に背中を見せなければならない。裸稼業の者に取っては、刺青は一種の衣服《きもの》で、刺青のない身体をお客の前に持出すのは、普通の人が衣服を着ないで人の前に出るようなものです。まあ、それほどで無いとしても、刺青のない駕籠屋と、掛声の悪い駕籠屋というものは、甚だ幅の利かないものに数えられている。清吉は好い男で、若い江戸っ子でしたが、可哀そうに刺青がないから、どうも肩身が狭い。掛声なんぞは練習次第でどうにでもなるが、刺青の方はそうは行かない。体質の弱い人間が生身《なまみ》に墨や朱を注《さ》すと、生命にかゝわると昔からきまっているんだから、どうにも仕様がない。
背中一面の刺青《ほりもの》をみて、威勢が好いとか粋《いき》だとかいう人は、その威勢の好い男や粋な大哥《あにい》になるまでの苦しみを十分に察してやらなければなりません。同じく生身をいじめるのでも、灸を据えるのとは少し訳が違います。第一に非常に金がかゝる。時間がかゝる。銭の二百や三百持って行ったって、物の一寸と彫ってくれるものではありません。又、どんなに金を積んだからと云って、一度に八寸も一尺も彫れる訳のものではありません。そんな乱暴なことをすれば、忽ちに大熱を発して死んでしまうと伝えられているのです。要するに少しずつ根気よく彫って行くのが法で、いくら焦っても急いでも、半月や一月で倶利迦羅紋々の立派な阿哥《おあにい》さんが無造作に出来上るというわけにも行かないのです。
刺青師は無数の細い針を束ねた一種の簓《さゝら》のようなものを用いて、しずかに叮嚀に人の肉を突き刺して、これに墨や朱をだん/\に注《さ》して行くのですが、朱を注すのは非常の痛みで、大抵の強情我慢の荒くれ男でも、朱入りの刺青を仕上げるまでには、鬼の眼から涙を幾たびか零《こぼ》すと云います。しかも大抵の人は中途で屹《きっ》と多少の熱が出て、飯も食えないような半病人になる。こんな苦しみを幾月か辛抱し通して、こゝに初めて一人前の江戸っ子になるのですから、どうして中々のことではありません。
こんなわけだから、生きた身体に刺青などと云うことは、とても虚弱な人間のできる芸ではない。清吉も近来はよほど丈夫になったと人も云い、自分もそう信じているのですが、土台の体格が孱弱《かよわ》く出来ているのですから、迚《とて》も刺青などという荒行《あらぎょう》の出来る身体ではない。勿論、方々の医師《いしゃ》にも診て貰ったが、どこでも申合わしたように、お前のからだには決して刺青なぞをしてはならぬ、そんな乱暴なことをすると命がないぞと、脅《おど》かすように誡められるのですが、当人はどうも思い切れないので、方々の刺青師にも相談してみたが、これも一応は清吉の身体をあらためて、お前さんはいけねえとかぶりを掉《ふ》るのです。医師にも誡められ、刺青師にも断られたのだから、もう仕様がない。あたら江戸っ子も日蔭の花のように、明るい世界へは出られない身の上、これが寧《いっ》そしが[#「しが」に傍点]ない半端人足だったら、どうも仕方がないと諦めてしまうかも知れないが、なまじい相当の家に生れて、立派な大哥《あにさん》株で世間が渡られる身体だけになお/\辛いわけです。
店に転がっている大勢の若い者は、みんなその背中を墨や朱で綺麗に彩色している。ある者は雲に竜を彫ってある。ある者は巖《いわ》に虎を彫っている。ある者は義経を背負《しょ》っている。ある者は弁慶を背負っている。ある者は天狗を描いている。ある者は美人を描いている。こういうのが沢山ごろ[#「ごろ」に傍点]/\しているなかで、大哥と呼ばれる清吉ひとりが、生れたまゝの生白い肌を晒していると云うのは、幅の利かないことおびたゞしい。若い者だから無理はありません。清吉はひとに内証で涙を拭いていることもあったそうです。
この初島の近処に梅の井とかいう料理茶屋があって、これも可なりに繁昌していたそうですが、そこの娘にお金《きん》ちゃんという美《い》い女がいました。清吉とは一つ違いの十八で……。と云ってしまえば、大抵まあお話は判っているでしょう。まあ、なにしろそんなことで、お金清吉という相合傘が出来たと思ってください。両方の親達も薄々承知で、まあ出来たものならばゆく/\は一緒にしてやろう位に思っていたのです。芝居でするように、こゝで敵役の悪《わる》侍なんぞが邪魔に這入らないんですから、お話が些《ちっ》と面白くもないようですが、どうも仕方がありません。
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