ちっ》とも分け隔てがない。それですから、町家の親達はいよ/\喜んでいました。
それだけならば、至極結構なわけで、別にお話の種になるような事件も起らない筈ですが、嘉永二年の六月十五日、この日は赤坂の総鎮守氷川神社の祭礼だというので、市川さんの屋敷では強飯《こわめし》をたいて、なにかの煮染《にし》めものを取添えて、手習子たちに食べさせました。きょうは御稽古は休みです。土地のお祭りですから、どこの家《うち》でも強飯ぐらいは拵えるのですが、子供たちはお師匠さまのお屋敷で強飯の御馳走になって、それから勝手に遊びに出る。それが年々の例になっているので、今年もいつもの通りにあつまって来る。奥さんやお嬢さんや女中が手伝って、めい/\の前に強飯とお煮染めをならべる。いくら行儀がいゝと云っても、子供たちのことではあり、殊にきょうはお祭りだというのですから、大勢がわあ/\騒ぎ立てる。それでも不断の日とは違うから、誰も叱らない。子供たちは好い気になって騒ぐ。そのうちに、今井健次郎という今年十二になる男の児が三河屋綱吉という同い年の児の強飯のなかへ自分の箸を突っ込んだ。それが喧嘩のはじまりで、ふたりがとう/\組討になると、健次郎の方にも四五人、綱吉の方にも三四人の加勢が出て、畳の上でどたばた[#「どたばた」に傍点]という大騒ぎが始まりました。
健次郎はこの近所に屋敷を持っている百石取りの小さい旗本の忰で、綱吉は三河屋という米屋の忰です。師匠はふだんから分け隔てのないように教えていても、屋敷の子と町家の子とのあいだには自然に隔てがある。さあ喧嘩ということになると、武家の子は武家方、町家の子は町家方、たがいに党を組んでいがみ合うようになります。きょうも健次郎の方には武家の子どもが加勢する。綱吉の方には町家の子どもが味方するというわけで、奥さんや女中が制してもなか/\鎮まらない。そのうちに健次郎をはじめ、武家の子供たちが木刀をぬきました。子供ですから木刀をさしている。それを抜いて振りまわそうとするのを見て、師匠の市川さんももう捨て置かれなくなりました。
「これ、鎮まれ、鎮まれ。騒ぐな。」
いつもならば叱られて素直に鎮まるのですが、きょうはお祭で気が昂《た》っているのか、どっちもなか/\鎮まらない。市川さんは壁にかけてあるたんぽ[#「たんぽ」に傍点][#「たんぽ」は底本では「たんぼ」]槍を把《と》って、木刀をふりまわしている二三人を突きました。突かれた者はばた/\倒れる。これで先ず喧嘩の方は鎮まりました。突かれた者は泣顔をしているのを、奥さんがなだめて帰してやる。町家の組も叱られて帰る。どっちにも係り合わなかった者は、おとなしいと褒められて帰る。壁にかけてあるたんぽ[#「たんぽ」に傍点]槍は単に嚇しの為だと思っていたら、今日はほんとうに突かれたので、子供たちも内々驚いていました。
その日はそれで済みましたが、あくる朝、黒鍬《くろくわ》の組屋敷にいる大塚孫八という侍がたずねて来て、御主人にお目にかゝりたいと云い込みました。黒鍬組は円通寺の坂下にありまして、御家人のなかでも小身者が多かったのです。市川さんは兎もかくも二百五十石の旗本、まるで格式が違います。殊に大塚の忰孫次郎はやはりこゝの屋敷へ稽古に通っているのですから、大塚は一層丁寧に挨拶しました。さて一通りの挨拶が済んで、それから大塚はこんなことを云い出しました。
「せがれ孫次郎めは親どもの仕付方が行きとゞきませぬので、御覧の通りの不行儀者、さだめてお目にあまることも数々であろうと存じまして、甚だ赤面の次第でござります。」
それを序開きに、彼はきのうの一条について師匠に詰問をはじめたのです。前にもいう通り、身分違いの上に相手が師匠ですから、大塚は決して角立ったことは云いません。飽までも穏かに口をきいているのですが、その口上の趣意は正しく詰問で、今井の子息健次郎どのが三河屋のせがれ綱吉と喧嘩をはじめ、武家の子供、町家の子供がそれに加勢して挑み合った折柄に、師匠の其許はたんぽ[#「たんぽ」に傍点]槍を繰り出して、武家の子ども二三人を突き倒された。本人の健次郎どのは云うに及ばず、手前のせがれ孫次郎もその槍先にかゝったのである。それがために孫次郎は脾腹を強く突かれて、昨夜から大熱を発して苦しんでいる。勿論、一旦お世話をねがいましたる以上、不行儀者の御折檻は如何ようなされても、かならずお恨みとは存じないのであるが、喧嘩両成敗という掟にはずれて、その砌りに町家の子どもには何の御折檻も加えられず、武家の子供ばかりに厳重の御仕置をなされたのは如何なる思召でござろうか。弟子の仕付方はそれで宜しいのでござろうか。念のためにそれを伺いたいと云うのでした。
市川さんは黙って聴いていました。
二
質のわる
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