てから初めて草双紙などというものを手に取ったので、先ず第一に絵が面白い、本文も面白い。みんな夢中になって草双紙の話ばかりしている。貸本屋の方では好いお得意が出来たと思って、色々の草双紙を持ち込んでくる。それでもまあ「田舎源氏」や何かのうちは好かったのですが、だん/\進んで来て、人情本などを持ち込むようになる。先ず「娘節用《むすめせつよう》」が序開きで、それから「春色梅ごよみ」「春色|辰巳園《たつみのその》」などというものが皆んなの眼に這入って、お近さんまでが狂訓亭主人の名を識るようになると、若い女の多いこの下屋敷の奥には一種の春色が漲って来ました。今迄は半病人であったお嬢さまの顔色も次第に生々して、とき/″\には笑い声もきこえる。このごろは貸本屋があまりに繁く出入りをするので、困ったものだと内々は顔をしかめている侍たちも、それがためにお嬢さまの御病気がだん/\によくなると云うのですから、押切ってそれを遮るわけにも行かないで、まあ黙って観ているのでした。
そうして、夏も過ぎ、秋も過ぎましたが、お嬢さまはまだ本郷の屋敷へ戻ろうと云わない。お附の女中達も本郷へお使に行ったときには、好い加減の嘘をこしらえて、お嬢さまの御病気はまだほんとうに御本復にならないなどと云っている。本郷へ帰れば殿様や奥様の監視の下に又もや薙刀や竹刀をふり廻さなければならない。それよりも下屋敷に遊んでいて、夏の日永、秋の夜永に、狂訓亭主人の筆の綾をたどって、丹次郎や米八の恋に泣いたり笑ったりしている方が面白いというわけで、武芸を忘れてはならぬという殿様や奥様の教訓よりも、狂訓亭の狂訓の方が皆んなの身にしみ渡ってしまったのです。
そのなかでもその狂訓に強く感化されたのは、彼のお近さんでした。どうしたものか、この人が最も熱心な狂訓亭崇拝者になり切ってしまって、読んでいるばかりでは堪能が出来なくなったとみえて、わざ/\薄葉《うすよう》の紙を買って来て、それを人情本所謂小本の型に切って、原本をそのまゝ透き写しにすることになったのです。お近さんは手筋が好い、その器用と熱心とで根気よく丹念に一枚ずつ写して行って、幾日かゝったのか知りませんが、兎も角もその年の暮までに梅暦四編十二冊、しかも口絵から插絵まで残らず綺麗に写しあげてしまったそうです。今のお近さんの宝というのは、御奉公に出るときにお父《とっ》さんから譲られた二字国俊――おそらく真物《ほんもの》ではあるまいと思われますが――の短刀と、「春色梅ごよみ」十二冊の写本とで、この二つは身にも換えがたいと云うくらいの大切なものでした。
「どうも困ったものだ。」と、下屋敷の侍達はいよ/\眉をひそめました。
いくら下屋敷だからと云って、あまりに猥な不行儀なことが重なると、打っちゃって置くわけには行かない。殊に三島の屋敷は前にも申す通り、武道の吟味の強い家風ですから、そんなことが上屋敷の方へきこえると、こゝをあずかっている者どもの越度《おちど》にもなるので、もう何とかしなければなるまいかと内々評定しているうちに、貸本屋の方ではいよ/\増長して、このごろは春色何とかいうもの以上に春色を写してあるらしい猥な書物をこっそりと持ち込んで来るのを発見したので、侍達ももう猶予していられなくなって、貸本屋は出入りを差止められてしまいました。お仙もあやうく放逐されそうになったが、これはお嬢さまのお声がかりで僅かに助かりました。
貸本屋の出入りが止まるとなると、お近さんの写本がいよ/\大切なものになって、お近さんは内証でそれを読んで聞かせて皆んなを楽しませていました。――野にすてた笠に用あり水仙花、それならなくに水仙の、霜除けほどなる佗住居――こんな文句は皆んなも暗記してしまうほどになりました。そうしているうちに、こんなことが自然に上屋敷の方へ洩れたのか、或は侍たちも持て余して密告したのか、いずれにしてもお嬢様を下屋敷に置くのは宜しくないというので、病気全快を口実に本郷の方へ引き戻されることになりました。それは翌年の二月のことで、丁度出代り時であるのでお近さんともう一人、お冬とかいう女中がお暇《いとま》になりました。下屋敷の方ではお仙がとう/\放逐されてしまいました。
普通の女中とは違って、お近さんはお嬢さまのお嫁入りまでは御奉公する筈で、場合によってはそのお嫁入り先までお供するかも知れないくらいであったのに、それが突然にお暇になった。表向きはお人減《ひとべら》しというのであるが、どうも彼の貸本屋一件が祟りをなして、お近さんともう一人の女中がその主謀者と認められたらしいのです。それは彼のお仙の放逐をみても察しられます。
いつの代でもそうでしょうが、取分けてこの時代に主人が一旦暇をくれると云い出した以上、家来の方ではどうすることも出来ません。
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