のは、今から二十幾年前の秋、その唐もろこしの御馳走になりながら、縁さきにアンペラの座蒲団をしいて、三浦老人とむかい合っていたときに聴かされた昔話の一つである。その頃に比べると、こゝらの藪蚊はよほど減った。それだけは土地繁昌のおかげである。
老人は語った。
これはこゝから余り遠くないところのお話で、新宿の新屋敷――と云っても、あなた方にはお判りにならないかも知れませんが、つまり今日の千駄ヶ谷の一部を江戸時代には新屋敷と唱えていました。そこには大名の下屋敷もある、旗本の屋敷もある。ほかに御家人の屋敷も沢山ありましたが、なんと云っても場末ですから随分さびしい。往来のところ/″\に草原がある、竹藪がある。うら手の方には田圃がみえる、田川が流れているという道具立ですから、大抵お察しください。その六軒町というところに高松勘兵衛という二百俵取りの御家人が住んでいました。
いつぞやは御家人たちの内職のお話をしたことがありましたが、この人は槍をよく使うので近所の武家の子供たちを弟子にとっている。流儀は木下流――木下淡路守|利常《としつね》という人が槍術の一流をはじめたので、それを木下流というのです。この人は内職でなく、もと/\武芸が好きで、慾を離れて弟子を取立てゝいたのですから、人間は律儀一方で武士気質の強い人、御新造はおみのさんと云って夫婦のあいだに姉弟の子どもがある。姉さんはお近さんと云って二十四、弟は勘次郎と云って十八歳、そのまん中にまだひとり女の子があったのですが、それは早くに死んだそうです。お父《とっ》さんはまだ四十五六の勤め盛りですから、息子の部屋住みは当然でしたが、姉さんのお近さんはもう二十四にもなってなぜ自分の家に居残っているかと云うと、これはこの春まで御奉公に出ていたからです。
武家の娘でも奉公に出ます。勿論、町人の家に奉公することはありませんが、自分の上役の屋敷に奉公するのは珍しくありません。御家人のむすめが旗本屋敷に奉公するなどは幾らもありました。一つは行儀見習いの為で、高松のお近さんも十七の春から薙刀の出来るのを云い立てに、本郷追分の三島信濃守という四千石の旗本屋敷へ御奉公にあがりまして、お嬢さま附となっていました。旗本も四千石となると立派なもので、殆ど一種の大名のようなものです。大名はどんなに小さくとも大名だけの格式を守って行かなければならず、参覲交代もしなければなりませんから、内証はなか/\苦しい。したがって、一万石や二万石ぐらいの木葉大名よりも、四千石五千石の旗本の方がその生活は却って豊なくらいでした。
三島の屋敷も評判の物堅い家風でした。高松さんもそれを知って自分の娘を奉公に出したのですが、まったく奥も表も行儀が正しく、武道の吟味が強い。お近さんはお嬢さまのお相手をして薙刀の稽古を励む。ほかの腰元たちも一緒になって薙刀や竹刀《しない》撃の稽古をする。まるで鏡山の芝居を観るようです。奥さまは勿論ですが、殿さまも時々に奥へお入りになって、女どもの試合を御覧になるのですから、女たちも一層熱心に稽古をする。女でさえも其通りですから、まして男でこの屋敷に奉公するほどのものは、足軽仲間にいたるまで竹刀の持ち様は確かに心得ているというわけで、まことに武張った屋敷でした。
「武家に奉公するものは武芸を怠ってはならぬ。まして今の時世であるから、なんどき何事が起らないとも限らぬ。男も女もその用心を忘れまいぞ。」
これが殿さまや奥さまの意見で、屋敷のもの一統へ常日頃から厳重に触れ渡されているのです。お近さんという娘は子供のときからお父《とっ》さんの仕付をうけていますから、こういう屋敷にはおあつらえ向きで、主人の首尾もよく、自分も満足して、忠義一図に幾年のあいだを勤め通して、薙刀や竹刀撃に娘ざかりの月日を送っていました。これはお近さんに限らず、御殿奉公をする者はみなそうでしたろうが、取りわけてこの屋敷は武芸専門というのですから、勤め向きも余計に骨が折れたろうと思われます。併しどの奉公人もそれを承知で住み込んだものばかりですから、別に苦労とも思わなかったのです。お近さんなどは宿下りで自分の家へ帰ったときに、それを自慢らしく両親に吹聴し、親たちも一緒になって喜んでいたくらいでした。
それで済めば天下泰平、いや、些《ちっ》とぐらいの騒動が起っても大丈夫であったのですが、こゝに一つの事件が出来《しゅったい》した。というのは、この屋敷のお嬢さまが病気になったのです。なにしろ殿さまも奥さまも前に云ったような気風の人たちですから、どうも今時のわかい者は気に入らない。したがって、今日までに縁組の相談があっても、あんな柔弱な奴のところへは嫁に遣れないとか、あんな不心得の人間を婿には出来ないとか、色々むずかしいことを云って断ってしまうので、
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