らかの給金が貰える。なにを云うにも苦しい世帯ですから、親子がめでたく寄合う行末を楽みに、まあ/\我慢しているというわけでした。どの人も勿論そうでしょうが、取分けてこの親子三人は「行末」という望みのためばかりに生きているようなものだったのです。
 ところが、神も仏も見そなわさずに、この親子の身のうえに悲しい破滅が起ったのです。その第一はおふくろが病気になったことで、おふくろはまだ三十八、ふだんから至極丈夫な質だったのですが、安政二年、おつねが十七、久松が十四という年の春から不図煩いついて、三月頃にはもう枕もあがらないような大病人になってしまいました。姉弟の心配は云うまでもありません。おつねは主人に訳を話して、無理に暇を貰って帰って、一生懸命に看病する。久松も近所のことですから、朝に晩に見舞にくる。長屋の人たちも同情して、共々に面倒を見てくれたのですが、おふくろの容態はいよ/\悪くなるばかりです。今までは近所の小池玄道という医者にかゝっていたのですが、どうもそれだけでは心もとないと云うので、中途から医者を換えて、彼の舟見桂斎先生をたのむことになりました。評判のいゝ医者ですから、この人の匕加減でなんとか取留めることも出来ようかと思ったからでした。
 桂斎先生は流行《はやり》医者ですから、うら店などへはなか/\来てくれないのを、伝手《つて》を求めてよう/\来て貰うことにしたのですが、先生は病人の容態を篤とみて眉をよせました。
「これは容易ならぬ難病、所詮わたしの匕にも及ばぬ。」
 医者に匕を投げられて、姉も弟もがっかりしました。ふたりは病人の枕もとを離れることが出来ないので、長屋の人にたのんで医者を送って貰って、あとは互いに顔を見あわせて溜息をつくばかりでした。この頃はめっきり痩せた姉の頬に涙が流れると、弟の大きい眼にも露が宿る。もうこの世の人ではないような母の寝顔を見守りながら、運のわるい姉弟はその夜を泣き明かしました。芝居ならば、どうしてもチョボ入りの大世話場《おおせわば》というところです。

       二

 それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。
「並一通り
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