とに頓着しなかった。わたしは半七老人から江戸時代の探偵ものがたりを聴き出すのと同じような興味を以て、この三浦老人からも何かの面白い昔話を聴きたいと思った。新しい話を聴かせてくれる人は沢山ある、寧ろだん/\に殖えてゆくくらいであるが、古い話を聴かせてくれる人は暁方《あけがた》の星のようだん/\に消えてゆく。今のうちに少しでも余計に聴いて置かなければならないという一種の慾も手伝って、わたしはあらためて三浦老人訪問の約束をすると、老人は快く承知して、どうで隠居の身の上ですからいつでも遊びにいらっしゃいと云ってくれた。
その次の日曜日は陰《くも》っていた。底冷えのする日で、なんだか雪でも運び出して来そうな薄暗い空模様であったが、わたしは思い切って午後から麹町の家《うち》を出て、大久保百人町まで人車《くるま》に乗って行った。車輪のめり込むような霜どけ道を幾たびか曲りまわって、よう/\に杉の生垣のある家を探しあてると、三浦老人は自身に玄関まで出て来た。
「やあ、よく来ましたね。この寒いのに、お強いこってすね。さあ、さあ、どうぞおあがりください。」
南向きの広い庭を前にしている八畳の座敷に通されて、わたしは主人の老人とむかい合った。
二
わたしは自分と三浦老人との関係を説くのに、あまり多くの筆や紙を費し過ぎたかも知れない。早くいえば、前置きがあまり長過ぎたかも知れないが、これから次々にこの老人の昔話を紹介してゆくには、それを語る人がどんな人物であるかと云うことも先ず一通りは紹介して置かなければならないのである。しかしこの上に読者を倦ませるのはよくない。わたしはすぐに本文に取りかゝって、この日に三浦老人から聴かされた江戸ものがたりの一つを紹介しようと思う。
三浦老人はこう語った。
今日の人たちは幕末の士風頽廃ということをよく云いますが、徳川の侍だって揃いも揃って腰ぬけの意気地無しばかりではありません。なかには今日でも見られないような、随分しっかりした人物もありました。併し又そのなかには随分だらしのない困り者があったのも事実で、それを証拠にして、さあ何《ど》うだと云われると、まったく返事に詰まるわけです。そのだらしのないと云われる仲間のうちには、又こんな風変りのもありました。
これはわたくしが子供の時に聞いた話ですから、天保初年のことゝ思ってください。
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