られて、それぎり世に出ることが出来ないとすれば、あまりに酷たらしいお仕置です。わたくしが奥様のお使さえ勤めなければ、こんなことも出来しなかったのでございましょう。ほんとうに飛んでもない罪を作ったと一生悔んでおります。それ以来、芝居というものがなんだか怖ろしくなりまして、わたくしはもう猿若町へ一度も足を踏み込んだことはございませんでした。師匠の小翫の話によりますと、照之助の美しい顔はそれぎり舞台に見えないと申します。
 それから三年ほどの後に、わたくしは不動様へ御参詣に行きましたので、そのついでに御下屋敷の近所まで竊《そっ》と行ってみますと、御屋敷は以前よりも荒れまさっているようでしたが、二棟の土蔵はむかしのまゝに大きく突っ立って、古い瓦の上に鴉が寒そうに啼いていました。その土蔵の長持の底には、美しい歌舞伎役者が白い骨《こつ》になって横わっているかと思うと、わたくしは身の毛がよだって逃げ出しました。

 こゝまで話して、老女はひと息つくと、三浦老人は代って註を入れてくれた。
「いつぞや梅暦のお話をしたことがあるでしょう。筋は違うが、これもまあ同じようないきさつ[#「いきさつ」に傍点]で、むかしの大名や旗本の下屋敷には色々の秘密がありましたよ。」
[#改段]

矢がすり

       一

 ある時に、三浦老人は又こんな話をして聴かせた。それは近ごろ矢場《やば》というものがすっかり[#「すっかり」に傍点]廃れて、それが銘酒屋や新聞縦覧所に変ってしまったという噂が出たときのことである。明治以後でも矢場は各所に残っていて、いわゆる左り引きの姐さん達が白粉の匂いを売物にしていたのであるが、日清以後からだん/\に衰えて、このごろでは殆どその後を絶ったなどという話も出た。その末に、老人はこう云った。
 矢場女と一口に云いますけれど、江戸のむかしは、矢場女や水茶屋の女にもなか/\えらいのがありまして、何処の誰といえば世間にその名を知られているのが随分あったものです。これは慶応の初年のことですが、そのころ芝の神明の境内にお金《きん》という名代の矢場女がありました。店の名を忘れましたが、当人は矢がすりという綽名をつけられて、容貌《きりょう》のいゝのと、腕があるのとで近所は勿論、浅草あたりの矢場遊びの客までも吸いよせるという人気はすさまじいものでした。
 この女がなぜ矢飛白《やがすり》
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