いので、与力は顔を突き出して怒鳴りました。
「手前は法螺をふく。」
「馬鹿。」
与力はいきなりにその横鬢を扇でぴしゃりと撲《ぶ》たれました。撲たれた方はびっくりしていると、撲った方は苦り切って叱りつけました。
「たわけた奴だ。帰れ、帰れ。」
相手が上役だから何うすることも出来ない。ぶたれた上に叱られて、若い与力は烟《けむ》にまかれて早々に帰りました。すると、その晩になって、組がしらから使が来て、なにがしにもう一度逢いたいから来てくれと云うのです。今度行ったらどんな目に逢うかと思ったのですが、上役からわざ/\の使ですから断るわけにも行かないので、内心びく/\もので出かけて行くと、昼間とは大違いで、組頭はにこ/\しながら出て来ました。
「いや、先刻は気の毒。どうも年をとると一徹になってな。はゝゝゝゝ。」
だん/\聴いてみると、この組がしらの老人、ほら[#「ほら」に傍点]を吹くと云ったのを、俗に所謂ほら[#「ほら」に傍点]を吹くの意味に解釈して、大風呂敷をひろげると云うことゝ一図に思い込んでしまったのでした。武士は法螺をふくとは云わない、貝を吹くとか、貝をつかまつるとか云うのが当然で、その与力も初めはそう云ったのですが、相手にいつまでも通じないらしいので、世話に砕いて「ほら[#「ほら」に傍点]を吹く」と云ったのが間違いの基でした。役附を願うには何かの芸を申立てなければならないが、その申立ての一芸が駄法螺を吹くと云うのでは、あまりに人を馬鹿にしている、怪しからん奴だと組頭も一時は立腹したのですが、あとになってから流石にそれと気がついて、わざ/\使を遣って呼びよせて、あらためてその挨拶に及んだわけでした。
組がしらも気の毒に思って、特別の推挙をしてくれたのでしょう、その与力は念願成就、間もなく貝の役を仰せ附かることになりました。それを聞きつたえて若い人たちは、「あいつは旨いことをした。やっぱり人間は、ほら[#「ほら」に傍点]をふくに限る。」と笑ったそうです。なんだか作り話のようですが、これはまったくの実録ですよ。
老人の話が丁度こゝまで来たときに、表の門のあく音がして三四人の跫音がきこえた。女や子供の声もきこえた。躑躅のお客がいよ/\帰って来たらしい。わたしはそれと入れちがいに席を起つことにした。
[#改段]
権十郎の芝居
一
これも何かの因
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