のお仲間入りをしたのでしょう。それについても定めて内外《うちそと》から色々の苦情があったことゝ察しられますが、当人が飽までも遊芸に執着しているのだから仕方がありません。小坂さんはとう/\自分の思い通りの小普請になって、さあこれからはおれの世界だとばかりに、大びらで浄瑠璃道楽をはじめることになりました。いや、もうその頃は所謂お道楽を通り越して、本式の芸というものになっていたのです。
 こうなると、自分の屋敷内で遠慮勝に語ったり、友だちの家へ行って慰み半分に語ったりしているだけでは済まなくなりました。当人はどこまでも真剣です。だん/\と修業が積むにつれて、自然と芸人附合をも始めるようになって、諸方のお浚いなどへも顔を出すと、それがまったく巧いのだから誰でもあっと感服する。桐畑の殿様を素人にして置くのは勿体ないなどと云う者もある。当人もいよ/\乗気になって、浜町の家元から清元|喜路《きじ》太夫という名前まで貰うことになってしまいました。勿論それで飯を食うというわけではありませんが、千五百石の殿様が清元の太夫さんになって、肩衣《かたぎぬ》をつけて床《ゆか》にあがるというのですから、世間に類の少いお話と云っていゝでしょう。清元の仲間では桐畑の太夫さんと呼んでいました。道楽もこゝまで徹底してしまうと誰もなんとも云いようがありますまい。屋敷内の者も親類縁者の人達も、もう諦めたのか呆れたのか、正面から意見がましいことを云い出す者もなくなって、唯いたずらに当人の自由行動をながめているばかりでした。
 さてこれからがお話の本文で、この喜路太夫の身のうえに一大事件が出来《しゅったい》したのです。

       三

 まえにも申上げた通り、天保初年の三月末のことだそうです。芝の高輪《たかなわ》の川与《かわよ》という料理茶屋で清元の連中のお浚いがありました。今日とちがって、江戸時代の高輪は東海道の出入口というのでなか/\繁昌したものです。殊に御殿山のお花見が大層賑いました。お浚いは昼の八つ(午後二時)頃から夜にかけて催されることになって、大きい桜のさいている茶屋の門口《かどぐち》に、太夫の連名を筆太にかいた立看板が出ているのを見ると、そのうちに桐畑の喜路太夫の名も麗々しく出ていました。
 このお浚いは昼のうちから大層な景気で、茶屋の座敷には一杯の人が押掛けています。日がくれると門口には紅
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