》。――

 森君がこうしてお冬という娘のことを気にかけているのを見ると、その日記にいわゆる「なんだか可哀そう」という程度を通り越しているらしい。森君もおそらく眼を嶮しくして、彼女と青年紳士との行動に注意していたのであろう。しかし六日と七日の日記の上にはお冬さんに関する記事はなんにも見えない。もっともこの二日間は毎日おそろしい雷雨がつづいたので、森君もさすがに外出しなかったのであった。

 八日、晴、驟雨《しゅうう》。午前七時起床。けさはぬぐうがごとき快晴なり。食後散歩。挽地物屋の店にお冬さんの姿みえず、老人もめずらしく仕事を休みて店先にぼんやり坐っている。例のごとく挨拶したれど、老人なんの返事もせず。――午飯《ひるめし》の時に宿の女中の話によれば、お冬さんはきのうの夕方に雷雨を冒《おか》して出《い》でたるまま帰らずとのこと也。情夫《おとこ》でもあるのかと訊けば、お冬さんは町でも評判のおとなしい娘にて、浮いた噂などかつて聞いたこともないという。彼女が無断にて家出の子細は誰にもわからず。なんだか夢のようなり。――夕より俄かにくもりて、驟雨、雷鳴。お冬さんは今頃どうしているにや。夜に入って雨やみたれば、八時ごろ散歩。挽地物屋《ひきじものや》の店にはやはりお冬さんは見えず。老人が団扇《うちわ》づかいの唯さびしげなり。

 九日、晴。虫が知らしたるか、けさは早く醒めると、雨戸をあけに来た女中から思いもつかない話をきく。お冬さんはゆうべの十一時過ぎに、ちらし髪の素足でどこからか帰って来たるよしにて、お山の天狗にさらわれたるならんとの噂なりとぞ。奇妙なこともあるものなり。食後すぐに行ってみると、お冬さんは真っ蒼な顔をして店に坐りいたり。声をかけても返事もせず、六兵衛老人の姿もみえず。さらに見まわせば、老人の道楽にてたくさんに飼いたるいろいろの小鳥の籠はひとつも見えず。お父《とっ》さんはどうしたと重ねて問えば、お冬さんは微かな声で、奥に寝ていますという。鳥籠はどうしたときけば、鳥はみんな放してやりましたという。なにか子細がありそうなれど、この上の詮議もならねばそのままにして別れる。晴れて今日は俄かに暑くなる。――午後再び散歩。大谷《だいや》川のほとりまで行って引っ返して来ると、お冬さんの店にはかの磯貝という紳士が腰をかけて、何か笑いながら話している。お冬さんの顔は鬼女のごとく、幽
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