みもだ》えして泣き狂っている彼女を慰めていたわって、再び挽地物屋の店へ連れて帰った。しかしお冬の家は親ひとり子ひとりで、その親は拘引されている。そのあき巣に娘ひとりを残して置いては、なんどきまた何事を仕出かすかも知れないという不安があるので、森君はお冬を自分の宿屋へ連れて帰って、主人にあらましの訳を話して、当分はここに置いてもらうことにした。
八月十二日の日記はこれで終っている。田島はその翌あさ帰った。それから十九日まで一週間の日記は甚だ簡単で、しかもところどころ抹殺してあるので殆ど要領を得ない。しかしお冬がその日まで森君の宿屋に一緒に泊っていたことは事実である。森君はあまり綿密に日記をつけている暇がなかったらしい。八月二十日以後の日記にはこういう記事が見えた。
二十日、晴。けさは俄かに秋風立つ。午後一時ごろに六兵衛老人は宇都宮から突然に帰って来る。おどろいてきけば、殺人の嫌疑は晴れたる由。老人はその以外には口をつぐんでなんにも言わず。お冬さんは嬉し涙をこぼして自分の家へ帰る。予も一緒に行く。近所の人たちも見舞に来る。めでたきこと限りなし。――夜七時頃にお冬さんがたずねて来て、二時間ほど語りて帰る。夜はもう薄ら寒きほどなり。当分当地に滞在する由をしたためて、東京の兄や友人らに郵書を送る。兄からは叱言《こごと》が来るかも知れねど是非なし。
二十一、二十二の二日間の日記には別に目立った記事もない。ただ森君がお冬さんと親しく往来していた事実を伝えているのみである。二十三日には折井探偵が再びこの町に姿をあらわしたと書いてある。芸妓の小せんは再び拘引された。それは磯貝から預かっていた金をそのまま着服したことが露見した為である。二十四日は無事。
二十五日、陰。微雨。――宇都宮から田島さん来たる。磯貝殺しの犯人は、鹿沼町の某会社の職工にて、昨夜再び日光の町へ入り込みしところを折井刑事に捕縛されたりという。その職工は小せんの情夫にはあらず、情夫の朋輩《ほうばい》にて小牧なにがしという者なり。田島さんの報告によれば、小牧は東京にて相当の生活を営《いとな》みいたりしが、磯貝の父のために財産を差押えられ、妻子にわかれて流転《るてん》の末に、鹿沼の町にて職工となりたる也。兇行の当夜は小せんの情夫と共に日光に来たり、ある料理店にて小せんと三人で遊んでいるうちに、小せんは二階から
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