、時によればふた月でも三月でも、それからそれへと飛んであるく。したがって、ちっとぐらいの雨や風を念頭に置いていないのも当然であった。
「これからすぐに出掛けるのか。そうして今度はどっちの方角だ。」と、わたしも笑いながら訊いた。
「久しぶりで猪苗代《いなわしろ》から会津《あいづ》の方へ行ってみようと思っている。途中で宇都宮の友達をたずねて、それから……。」
「日光へでも廻るか。」
「日光……。」と、森君は急に顔をくもらせた。「いや、日光はもう十年以上も行ったことがない。あるいは一生行かないかも知れない。」
「ひどく見限ったね。日光はそれほど悪いところじゃあるまいと思うが……。」
「無論、日光の土地が悪いというわけじゃ決してない。僕も紅葉《もみじ》の時節になると、また行ってみたいような気になることもあるが、やはりどうも足が向かない。なんだか暗いような気分に誘い出されてね。」
「なぜだ。日光で何か忌《いや》なことでもあったのか。」と、わたしは一種の好奇心にそそのかされて訊いた。
「むむ。」と、森君は今ついたばかりの電燈の弱い光りを仰ぎながら溜息《ためいき》をついた。
「日光で一体どうしたんだ。」
「実はね。」と、言いかけて、森君は急に気がついたように懐中時計を出して見た。「や、こりゃいけない。もう三十分しかない。上野まで大急ぎだ。」
「いいじゃないか、ひと汽車ぐらいおくれたって……。別に急ぎの旅でもあるまい。」
 森君は焦《じ》れったそうに衝《つ》と起ちあがって、本箱のなかを引っ掻きまわしていたが、やがて一冊の古い日記を持出して、投げ出すように私のまえに置いた。
「この日記の八月のところを見てくれたまえ。そうすれば大抵わかるよ。僕は急ぐから失敬する。」
 客のわたしを置き去りにして、気の短い森君はカバンを引っ提げて、すたすたと玄関の方へ出て行ってしまった。森君は三十|幾歳《いくつ》の今年まで独身で、老婢《ばあや》ひとりと書生一人の気楽な生活である。雑誌などへ時どき寄稿するぐらいで、別に定まった職業はない。多年懇意にしている私は、今夜もただ簡単に会釈《えしゃく》しただけで彼を見送ろうともしなかった。老婢や書生が玄関でなにか言っているのをよそに聞きながら、わたしはその日記帳を手に取って、八月のところを探してみようとしたが、電燈の光線の工合が悪いので、わたしは初めて起ちあがって
前へ 次へ
全14ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング