る。
午後一時頃に田島さん再び来たる。被害者が資産家の息子だけに、この事件は東京の新聞にも詳しく掲載されてあるとの話なり。現に東京の新聞記者五、六名も田島さんと同じ汽車にて当地に入り込みたる由なれば、田島さんも競争して大いに活動するつもりらしく見ゆ。田島さんは宿で午飯を食いてすぐに出て行く。晴れたれども涼しい風がそよそよと吹く。――夕方に田島さん帰り来たりて、警察側の意見を予に話して聞かせる。兇行の嫌疑者に三種あり。第一は東京より磯貝のあとを追い来たりしものにて、彼の父は実業家とはいえ、金貸を本業として巨万の富を作りたる人物なれば、なにかの遺恨にて復讐の手をその子の上に加えしならんという説。第二は小せんの情夫にて、かれは鹿沼町の某会社の職工なりといえば、一種の嫉妬か、あるいは小せんと共謀して欲得のために磯貝を害せしやも知れずという説。第三はかのお冬の父の六兵衛ならんという説。折井君は頻りに第三の説を主張していれど、これは根拠が最も薄弱なりと田島さんはいう。予も同感なり。
第二の説もいかがにや。欲心のために磯貝を害せしならば、紙入れや金時計をも奪い去るべき筈なるに、紙入れは引裂きたれど中味は無事なりしという。金時計も打毀《うちこわ》して捨ててあり。これから考えると、これも根拠が薄いようなり。ただし小せんはなんにも知らぬことにて、単に情夫の嫉妬と認むればこの説も相当に有力なるべし。こう煎じつめると、第一の説が最も確実らしいけれど、磯貝親子の人物についてなんにも知らざれば、予にはその当否の判断が付かず。ことに昨今は避暑客の出盛りにて、東京よりこの町に入り込みいる者おびただしければ、いちいち取調べるもなかなか困難なるべしと察せらる。
夕飯を食ってしまうと、田島さんはまた出て行く。二階の窓から見あげると、大きい山の影は黒くそびえて、空にはもう秋らしい銀河《あまのがわ》が夢のように薄白く流れている。やがて田島さんが忙がわしく帰って来て、折井君はとうとう六兵衛老人を拘引《こういん》したという。予はなんだか腹立たしく感じられて、なにを証拠に拘引したかと鋭くきけば、田島さんも詳しいことは知らず。しかし現場にてきのう拾いたる巻煙草の空き箱に木屑の匂いが残っていたのと、それを振ったときに細かい木屑が少しばかりこぼれ出したとの、この二つにて兇行者が挽地物細工に関係あるものと鑑定したら
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