あたしは気違いでも何でもない。あいつに恨みがあるから仇討をしただけの事だ。さあ、あたしの顔を覚えているだろう。表へ出て来い。」
 言いながら奥へ跳り込もうとするのを、義助はまた押えた。
「まあ、静かにしても判るだろう。」
「ええ、判らないからこうするのだ。ええ、うるさい。お放しというのに……。」
 かれの手にはまだ一つの貝殻が残っている。これをつかんだままで強く払いのけると、その貝殻が顔にあたって目をぶたれたか、鼻をぶたれたか、義助も顔をおさえて立ちすくんでしまった。こうなっては容赦はできない。駕籠屋四人は腕ずくでお安を取押えて、無理にとなりの店へ引摺って行った。
 義助も右の頬を傷つけられたのである。気違いのような女に襲われて、四郎兵衛は二カ所、お杉と義助は一ヵ所、いずれもその顔をさざえの殻に撃たれて、たとい深手《ふかで》でないにしても、流れる生血《なまち》を鼻紙に染めることになったので、茶屋の女房は近所の薬屋へ血止めの薬を買いに行った。人違いか気違いか、なにしろ飛んだ災難に逢ったとお杉は嘆いた。年の若い義助は激昂して、あの女をここへ引摺って来てあやまらせなければ料簡《りょうけん》が出来ないといきまいた。
「おっ母さんの言う通り、これも災難だ。神まいりの途中で、事を荒立てるのはよくない。あの女は気違いだ。あやまらせたとて仕方がない。」と、四郎兵衛は人々をなだめるように言った。
 彼は最初に目指されただけに、傷は二ヵ所で、又その撲《う》ちどころも悪かったので、まぶたも唇も腫れあがっていた。
 主人が災難とあきらめているので、義助もよんどころなく我慢したが、主従三人が揃いも揃ってこんな目に逢うのは、あまりに忌々《いまいま》しいと思った。
 店の女たちにきいてみると、あのお安という気違いじみた女は、藤沢在に住んでいる伝八という百姓のうちに寄留して、近所の子供や若い衆に浄瑠璃などを教えている、伝八の女房の姪《めい》だということで、以前は江戸に住んでいたが、去年の春ごろからここへ引っ込んで来たのである。ことしのお開帳を当て込みに、自分が心棒になって休み茶屋をはじめ、近所の娘を手伝いに頼んでいるが、主人が江戸者で客あつかいに馴れているので、なかなか繁昌するという。お安が雇い人であれば、その主人に掛合うというすべもあるが、本人が主人では苦情を持ち込む相手がない。義助もまったく諦めるのほかはなかった。
 ここまで来た以上、もちろん引っ返すわけにもいかないので、茶屋の女房が買って来てくれた血止めの薬で手当てをして、四郎兵衛とお杉はふたたび駕籠に乗って、石亀川の渡しまで急がせた。お安もさすがに追って来なかった。
 江の島の宿屋へ行き着いて、ここで午飯《ひるめし》をすませて弁天のやしろに参詣した。今度の開帳は下の宮である。各地の講中《こうちゅう》や土地の参詣人で狭い島のなかは押合うほどに混雑していた。四郎兵衛の一行三人はいずれも顔を傷つけているので、その混雑の人びとに見送られるのが恥かしかった。
 若葉どきの慣いで、きょうは朝から曇って薄ら寒いように思われたが、島へ着く頃から空の色はいよいよ怪しくなって、細かい雨がさらさらと降り出して来た。三人はその雨に濡れながら宿へ帰った。
「今夜は泊るとして、あしたはどうしようかね。」と、お杉は言った。
 今夜は江の島に泊って、あしたは足ついでに鎌倉見物の予定であったが、出先の災難に気をくさらせたお杉は、早く江戸へ帰りたいような気にもなった。自分と義助は差したることもないが、四郎兵衛の顔の腫れているのも何だか不安であった。一日も早く江戸へ帰って療治をしなければなるまいかとも思った。
「また来るといっても、めったに出られるものじゃあない、折角来たのだから、やっぱり鎌倉へ廻りましょうよ。」と、四郎兵衛は言った。
「でも、おまえの怪我はどうだえ。痛むだろう。」
「なに、大したこともありません。多寡《たか》が打傷《うちきず》ですから。」
「じゃあ、まあ、あしたになっての様子にしよう。なにしろお前は少し横になっていたらいいだろう。」
 宿の女中に枕を借りて、四郎兵衛を暫く寝かして置くことにした。平生は軽口で冗談などをいう義助も、唯ぼんやりと黙っていた。雨はだんだん強くなって、二階の縁側から見晴らす海も潮けむりに暗かった。
「あいにく降り出しまして、御退屈でございましょう。」と、宿の女中が縁側から顔を出した。
「お江戸の松沢さんと仰しゃる方がたずねてお出《い》でになりましたが、お通し申してよろしゅうございましょうか。」

     二

 やがてこの座敷へ通されて来た三十前後の町人風の男は、京橋の中橋《なかばし》広小路に同商売の菓子屋を営んでいる松沢という店の主人庄五郎であった。
「おや、お珍しいところで……。お前さんも
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