のたねに牛に乗って行こうという人もある。それらの客を目当てに牛を牽いた百姓らがそこらに徘徊しているのも、鎌倉名物の一つであった。
「その牛はおとなしいかえ。」と、お杉は訊いた。
「みんな牝牛《めうし》だからねえ。おとなしいこと請合いですよ。馬や駕籠に乗るよりも、どんなに楽だか知れやあしねえ。」と、百姓は言った。
「ほかの牛も直ぐに呼んで来ますから、三人乗っておくんなせえ。」
「いや、お前だけでいい。男はあるいていく。」と、四郎兵衛は言った。
金沢までの相談が決まって、足弱のお杉だけが、話の種に乗ることになった。男ふたりは附添って歩いた。牛を追ってゆくのは五十前後の正直そうな男であった。初めて牛に乗ったお杉は、案外に乗り心地のよいのを喜んでいた。
「落されるような事はあるまいね。」と、お杉は牛の背に横乗りをしていながら言った。
「馬から落ちたという事はあるが、牛から落ちたという話は聞かねえ。」と、男は笑った。「牛はおとなしいから、背中で踊ったって大丈夫ですよ。」
この頃は日は長い。鎌倉山の若葉をながめながら、牛の背にゆられて行くのは、いかにも初夏の旅らしい気分であった。小《こ》一里も行き過ぎてからお杉は四郎兵衛に声をかけた。
「お前さん、わたしと代って乗って御覧よ。ほんとうにいい心持だよ。」
「じゃあ、少し代らせてもらいましょうか。」
おもしろ半分が手伝って、四郎兵衛は母と入れかわって牛の背にまたがった。やがて朝夷《あさひな》の切通しに近いという頃に、むこうから同じく牛を牽いた男が来るのに出逢った。
「おお、お前は金沢か。」と、彼はこちらの男に大きい声で呼びかけた。「おらも金沢へ送って来た戻り路だよ。」
「ゆうべの雨で路はどうだ。」
「雨が強かったせいか、路は悪かあねえ。」
「それじゃあ牛も大助かりだ。」
「助かるといえば、お前のところのお安はどうした。」と、彼は立ちどまって訊いた。
「どうもよくねえ。」と、こちらの男は答えた。「医者さまは風邪を引いたのだというが、熱がひどいので傷寒《しょうかん》にでもならにゃあいいがと心配しているのだ。どこへ行ったのだか知らねえが、きのうの夕方、店をしめると直ぐにどっかへ出て行って、びしょ濡れになって雨のなかを夜ふけに帰って来たが、それで風邪を引いたに相違ねえ。おらは商売を休むわけにもいかねえから、嬶《かか》に看病させて、こうして出て来ているのだが、なんだか気がかりでならねえ。」
「そりゃ困ったな。あの雨のふるのにどこへ行ったのだろう。」
「それを詮議しても素直に言わねえ。江戸の客を追っかけて江の島へ行ったらしいのだが……。」
「なにしろ大事にしろよ。」
「おお。」
二人は挨拶して別れた。牛の上でそれを聞いていた四郎兵衛は、自分の顔の傷を隠したくなった。お杉も義助も逃げ出したいような心持になった。
「おまえの家《うち》に何か病人があるのかね。」と、四郎兵衛は探るように訊いた。
「はあ、わたしの女房の姪《めい》ですよ。」と、男は牛をひきながら答えた。「今もいう通りだ。ゆうべから急に風邪を引いて、熱が出て、なんだか死にそうで、困っていますよ。」
「おまえの家はどこだ。」
「藤沢ですよ。少し遠いが、商売だから仕方がねえ。朝早くから牛を牽いて、鎌倉まで出て来ましたのさ。」
「おまえの姪は茶店でも出しているのかえ。」
「そうですよ。よく知っていなさるね。」
男は思わず振返って、牛の上をみあげると、その途端に、牛は高く吼《ほ》えた。四郎兵衛は物におびえたように身をふるわせて、牛の背から突然にころげ落ちた。牛から落ちた話を聞かないと男は言ったが、それを裏切るように、彼は真っ逆さまにころげ落ちたのである。馬とは違って、牛の背は低い。それから地上に落ちたところで、さしたる事もあるまいと思われるが、四郎兵衛はそのまま気絶してしまった。
牛方の男もおどろいたが、お杉と義助はさらに驚かされた。男は近所から清水を汲んで来て、四郎兵衛にふくませた。三人の介抱で、四郎兵衛はようように息を吹きかえしたが、夢みる人のようにぼんやりしていた。
折りよくそこへ一挺の駕籠が通り合せたので、お杉と義助は四郎兵衛を駕籠に乗せかえた。牛方の男には金沢までの駄賃を払って、ここから帰してやることにした。男はひどく気の毒がって、幾たびか詫びと礼を言った。
「わたしの牛は今まで一度もお客を落したことはねえのに、どうしてこんな粗相《そそう》を仕出かしたのか。まあ、どうぞ勘弁しておくんなせえ。」
お杉は罪ほろぼしのような心持で、この男の姪に幾らかの療治代でも恵んでやりたかったが、迂濶なことをして覚えられては悪いと思い直して、それはやめた。なんにも知らないらしいかの男は、詫びと礼とを繰返して言った。
牛と別れて、二人はほっとした。傷寒
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング