人があるときは、牢名主その他の古顔の囚人どもが彼に対して色々の注意をあたえ、拷問に堪え得る工夫を教えて、たとい責め殺さるるまでも決して白状するなと激励するのである。そればかりでなく、あるいは口中に毒を含ませて遣《や》る。殊《こと》に梅干の肉は拷問のあいだに喉の渇きを助け、呼吸を補い、非常に有効であると伝えられているので、往々それを口にして白洲へ出るものがある。吉五郎もその疑いで口中の検査をうけたが、別にそれらしい形跡も発見されなかった。彼は引きつづく拷問でよほど疲労したらしくみえるので、それから一ヵ月ばかりのあいだは吟味を中止された。あまり頻繁に拷問をつづけると、彼を責め殺す虞があるからであった。
五月十八日に彼は第八回の吟味をうけたが、勿論白状しそうもみえないので、またもや拷問にかけられた。今度も笞打と石抱きとであったが、石の数は一枚殖えて九枚となった。それでも彼はとうとう堪え通した。綿のように疲れきって牢屋に帰ってくると、名主や役附の者どもは彼の剛胆を褒《ほ》めそやして、総がかりで介抱してやった。気の弱い罪人は一回の拷問で問い落されるのが多い、大抵の強い者でも先ず五、六回が行き止りであるのに、吉五郎は已《すで》に八回までも堪え通したのであるから、牢内では立派な男として褒められた。
奉行所では根気よくこの強情な罪人を調べなければならなかった。他の公事《くじ》が繁多のために、六月中は中止されて、七月一日からまたもや吉五郎の吟味をはじめた。係りの役人たちもあせってきたのであろう。かれは一日から八日までのあいだ殆ど隔日の拷問をうけた。前後八回で、やはり笞打と石九枚ずつであった。越えて二十七日には笞打と石七枚、それでも彼はちっとも屈しないので、八月十八日には更に手ひどい拷問を加えられた。この日は笞打なしで、単に石七枚だけであったが、その代りに昼四つ時(午前十時)から夕七つ(午後四時)まで重い石を置かれていた。このおそろしい根くらべにも打ち勝って、かれは無事に牢内へ戻って来て、他の囚人どもを驚かした。第一回以来、かれは前後十八回の拷問をうけながら遂に屈伏しないというのは、伝馬町の牢獄が開かれてから未曾有のことで、拷問に対して実に新しいレコードを作ったのであるから、かれは石川五右衛門の再来として牢内の人気を一身にあつめた。
未決の囚人であるから、かれはいわゆる役附の待遇をうけるわけには行かなかったが、実際はその以上に優遇された。牢名主の声がかりというので、彼は普通の囚人とは全然別格の待遇をうけて、他の囚人どもを手下のように使役するばかりでなく、三日に一度ぐらいは鰻飯などを食って贅沢に生活していた。たびたびの拷問をうけて、かれは定めて疲労衰弱したであろうと想像されるが、実際はそれと反対で、彼はますます肥満して入牢前よりは寧《むし》ろ壮健であるらしくみえた。生来虚弱の者は格別、壮健の者が幾回の拷問を凌いでくれば、いよいよ頑丈な体質になるものであると牢内ではいい伝えている。吉五郎はますます壮健になって、牢内の人気役者となって、新しい手拭を使って、うなぎ飯を食って、大威張りで日を送っていたのであった。
かれが最初に強情を張っているのは、一日でも生き延びようとする執着心か、あるいは係りの役人たちに対する一種の反感から湧いて来た意地ずくか、いずれはそんなものであったらしいのであるが、今日の彼は寧ろ一種の虚栄心ともいうべきものに支配されていた。一回でも拷問を堪えれば堪えるほど、かれの器量が上《あが》るのである。石川五右衛門の値打が加わるのである。牢内の者にも讃美され、優遇されるのである。所詮大罪は逃れぬと覚悟している以上、責め殺されるまでも強情を張り通して、自分の器量をあげた方がいいと考えたのは、彼として自然の人情であったともいえる。ただその拷問の苦痛に堪え得るか否かというのが問題であった。
こういうたぐいの罪人に対しては、理非をいい聞かせても無駄である。普通の拷問を加えても無効である。奉行所ではかれに対して更に惨酷なる拷問を加えることになって、九月二十二日には笞打のほかに海老責を行った。海老責は罪人を赤裸にして、先ず両手をうしろに縛りあげ、からだを前にかがめさせて、その両足を組みあわせて厳しく引っ縛り、更にその両足を頤《あご》にこすり付くまでに引きあげて、肩から背にかけて縛りつけるのであるから、彼は文字通りに海老のような形になって、押潰されたように平《へ》た張《ば》り伏しているのである。この拷問をうけるものは、はじめは惣身が赤くなり、更に暗紫色に変じて冷汗をしきりに流し、それがまた蒼白に変じるときは即ち絶命する時であるといい伝えられているので、皮膚に蒼白の色を呈するのを合図にその拷問を中止することになっていた。吉五郎はこの試錬をも通過して、無事に牢内に帰った。かれが今日は海老責に逢うことを牢屋附の下男の内報によって、牢内でも薄々承知していたので、ひそかにその安否を気配っていると、かれは問い落されもせず、責め殺されもせず、弱りながらも無事に帰って来たので、牢内の者どもは跳《おど》りあがって喜んだ。吉五郎は凱旋の将軍のように歓迎された。
十一月十一日、第二十回の拷問が行われて、かれは笞打のほかに石八枚を抱かされた。つづいて十二月二日には海老責に逢った。しかもかれが依然として屈伏しないこと勿論であった。それでこの年も未決のままに過ぎてしまって、吉五郎は牢内で第二回の春を迎えた。あくれば天保七の申年である。二月十三日に第二十二回の吟味が開かれて、かれは笞打と石九枚の拷問にかかった。三月二日には笞打と石十枚、四月四日には笞打と石九枚、それもみな無効に終った。かれは自ら作った拷問十八回のレコードを破って、更に二十四回の新レコードを作ったのであった。
四月十一日、奉行所ではいよいよ最後の手段として、かれに対して釣り責を行うことになった。まえにもいう通り、今までの笞打、石抱き、海老責は正式にいう拷問ではない。今度の釣し責が真の拷問である。牢問二十四回にしてなお屈伏しない罪人に対して、奉行所では初めて真の拷問を加うることになったのである。釣り責は青細引で罪人の両手をうしろに縛って、地上より三寸六分の高さまで釣りあげるのである。法は頗《すこぶ》る簡単のようであるが、責めらるる者に取ってはこれが最大の苦痛であるという。吉五郎は十一日と二十一日にこの拷問をうけた。これで最初から二十六回となるわけである。しかも彼は依然として屈伏しないばかりか、更に疲労衰弱のけしきも見えないので、係りの役人たちもほとほと持余《もてあま》してしまった。さりとてみすみすその罪状明白なる罪人をそのままに打捨てておくわけにも行かないので、奉行所では会議の結果、更に最後の手段を取ることになった。
最後の手段とは、かれが自白の有無にかかわらず、かれに対して裁判を下すのである。今日でいう認定裁判で、江戸時代ではこれを察斗詰《さとづめ》といった。しかし未決の罪人を察斗詰に行うのは滅多にその例がないことで、奉行一人の独断で取計うことは出来なかった。それはどうしても老中の許可を得なければならないので、吟味掛りの与力一同からそれぞれに意見書を呈出した。いずれも今日までの吟味の経過を詳細に書きあげて、所詮は察斗詰に行うのほかはありますまいというのであった。
江戸の町奉行所で察斗詰の例は極めて稀であった。士分の者にはその例がない、町人でも享保以後わずかに二人に過ぎないという。そういう稀有の例であるから、老中の方でも最初は容易に許可しそうにも見えなかったが、再三評議の末にいよいよそれを許可することになった。足かけ三年越しの裁判もここに初めて落着して、五月二十三日、播州無宿の吉五郎は死罪を申付けられた。察斗詰に対して、罪人が故障を申立てることは出来ないので、いかに強情我慢の彼もその申渡しに服従するの外はなかった。
しかし所詮は察斗詰であって、彼自身の白状ではない。かれは最後まで拷問に屈しなかったのである。牢内で役附の者どもは彼の最後を飾るべく、新しい麻の帷子《かたびら》に新しい汗襦袢《あせじゅばん》と新しい帯と新しい白足袋とを添えて贈った。吉五郎はその晴衣を身につけて牢内から牽き出されると、それを見送る囚人一同は、日本一、親玉、石川五右衛門と、あらゆる讃美の声々をそのうしろから浴せかけた。
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(この話は北町奉行所の与力であった佐久間長敬翁の教《おしえ》によるところが多い。ここにそれを断っておく。筆者)
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底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「新小説」
1924(大正13)年2月号
初出:「新小説」
1924(大正13)年2月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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