立てて、提灯に蝋燭《ろうそく》の灯を入れることになった。それを待つあいだに、文次郎はまた訊いた。
「それにしても、なぜ私たちのあとを追っかけて来るのだ。ひとりでは寂しいのかえ。」
「はい。日が暮れると、ここらは不用心でございます。わたくしは少々大事な物をかかえておりますので……。」
「よっぽど大事なものかえ。」と、文次郎は浅黄色の風呂敷包みに目をつけた。
「はい。」
駕籠屋の灯に照らし出された老婆は、その若い時を偲《しの》ばせるような、色の白い、人品のよい女であった。木綿物ではあるが、見苦しくない扮装《いでたち》をしていた。
「しかし年寄りの足で私たちの駕籠に付いて来ようとするのは無理だね。転《ころ》ぶとあぶないぜ。」
言ううちに、駕籠は再びあるき出したので、文次郎も共にあるき出した、老婆もやはり続いて来た。鈴ヶ森の畷《なわて》ももう半分ほど行き過ぎたと思うころに、老婆はつまずいて、よろけて、包みを抱えたままばったりと倒れた。
「それ、見なさい、言わないことじゃあない。それだから危ないというのだ。」
文次郎は引っ返して老婆を扶《たす》け起そうとすると、かれは返事もせずにあえいでいた。疲れて倒れて、もう起きあがる気力もないらしいのである。
「困ったな。」と、文次郎は舌打ちした。
さっきから駕籠のうちで、お峰の親子はこの問答を聞いていたのであるが、もうこうなっては聞き捨てにならないので、お峰は駕籠を停めさせて垂簾《たれ》をあげた。
「その婆さんは起きられないのかえ。」
「息が切れて、もう起きられないようです。」と、文次郎は答えた。
お妻も駕籠の垂簾をあげて覗《のぞ》いた。
「鮫洲まで行くのだということだね。それじゃあそこまで私の駕籠に乗せて行ってやったらどうだろう。」
「そうしてやればいいけれど……。」と、お峰も言った。「それじゃあ私がおりましょう。」
「いいえ、おっ母さん。わたしがおりますよ。わたしはちっと歩きたいのですから。」
旅|馴《な》れない者が駕籠に長く乗り通しているのは楽でない。年のわかいお妻が少し歩きたいというのも無理ではないと思ったので、母も強《し》いては止めなかった。
お妻が草履《ぞうり》をはいて出ると、それと入れ代りに、老婆が文次郎と駕籠屋に扶けられて乗った。お妻を歩かせる以上、駕籠を早めるわけにもいかないので、鮫洲の宿に着いた頃には、その日もまったく暮れ果てていた。
「ありがとうございました。お蔭さまで大助かりをいたしました。」
駕籠を出た老婆は繰返して礼を述べて、近江屋の一行に別れて行った。年寄りをいたわってやって、よい功徳《くどく》をしたようにお峰親子は思った。しかもそれは束《つか》の間《ま》で、老婆と入れ代って駕籠に乗ったお妻は忽《たちま》ちに叫んだ。
「あれ、忘れ物をして……。」
老婆は大事の物という風呂敷包みを置き忘れて行ったのである。文次郎も駕籠屋らもあわてて見まわしたが、かれの姿はもうそこらあたりに見いだされなかった。当てもなしにお婆さんお婆さんと呼んでみたが、どこからも返事の声は聞かれなかった。
「あれほど大事そうに言っていながら、年寄りのくせにそそっかしいな。」
口叱言《くちこごと》を言いながら、文次郎は駕籠屋の提灯を借りて、その風呂敷をあけてみた。一種の好奇心もまじって、お妻も覗いた。お峰も垂簾《たれ》をあげた。
「あっ。」
驚きと恐れと一つにしたような異様の叫び声が、人々の口を衝《つ》いて出た。風呂敷に包《つつ》まれた物というのは、白い新しい経帷子《きょうかたびら》であった。
二
かの老婆がなぜこんな物をかかえ歩いていたのか。考えようによっては、さのみ怪しむべきことでもないかも知れない。自分の親戚あるいは知人の家に不幸があって、かれは経帷子を持参する途中であったかも知れない。かれは年寄りのくせに路を急いだのも、それがためであったのかも知れない。心せくままに、かれはそれを駕籠のなかに置き忘れて去ったのかも知れない。
もしそうならば、かれもおどろいて引っ返して来るであろう。近江屋は芝の田町で、高輪《たかなわ》に近いところであるから、ここからも遠くはない。そこで文次郎は迷惑な忘れ物をかかえて、暫くここに待合せていることにして、お峰親子の駕籠はまっすぐに江戸へ帰った。
自分の店へ帰り着いて親子はまずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。隠して置くべきことでもないので、お峰はかの老婆と経帷子の一条を夫にささやくと、亭主の由兵衛も眉《まゆ》をよせた。それに対する由兵衛の判断も、大抵は前に言ったような想像に過ぎなかったが、何分にもそれが普通の品物と違うので、人々の胸に一種の暗い影を投げかけた。殊にその時代の人々は、そんなことを忌《い》み嫌うの念が強かったので、縁起が
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