その日もまったく暮れ果てていた。
「ありがとうございました。お蔭さまで大助かりをいたしました。」
 駕籠を出た老婆は繰返して礼を述べて、近江屋の一行に別れて行った。年寄りをいたわってやって、よい功徳《くどく》をしたようにお峰親子は思った。しかもそれは束《つか》の間《ま》で、老婆と入れ代って駕籠に乗ったお妻は忽《たちま》ちに叫んだ。
「あれ、忘れ物をして……。」
 老婆は大事の物という風呂敷包みを置き忘れて行ったのである。文次郎も駕籠屋らもあわてて見まわしたが、かれの姿はもうそこらあたりに見いだされなかった。当てもなしにお婆さんお婆さんと呼んでみたが、どこからも返事の声は聞かれなかった。
「あれほど大事そうに言っていながら、年寄りのくせにそそっかしいな。」
 口叱言《くちこごと》を言いながら、文次郎は駕籠屋の提灯を借りて、その風呂敷をあけてみた。一種の好奇心もまじって、お妻も覗いた。お峰も垂簾《たれ》をあげた。
「あっ。」
 驚きと恐れと一つにしたような異様の叫び声が、人々の口を衝《つ》いて出た。風呂敷に包《つつ》まれた物というのは、白い新しい経帷子《きょうかたびら》であった。

     二

 かの老婆がなぜこんな物をかかえ歩いていたのか。考えようによっては、さのみ怪しむべきことでもないかも知れない。自分の親戚あるいは知人の家に不幸があって、かれは経帷子を持参する途中であったかも知れない。かれは年寄りのくせに路を急いだのも、それがためであったのかも知れない。心せくままに、かれはそれを駕籠のなかに置き忘れて去ったのかも知れない。
 もしそうならば、かれもおどろいて引っ返して来るであろう。近江屋は芝の田町で、高輪《たかなわ》に近いところであるから、ここからも遠くはない。そこで文次郎は迷惑な忘れ物をかかえて、暫くここに待合せていることにして、お峰親子の駕籠はまっすぐに江戸へ帰った。
 自分の店へ帰り着いて親子はまずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。隠して置くべきことでもないので、お峰はかの老婆と経帷子の一条を夫にささやくと、亭主の由兵衛も眉《まゆ》をよせた。それに対する由兵衛の判断も、大抵は前に言ったような想像に過ぎなかったが、何分にもそれが普通の品物と違うので、人々の胸に一種の暗い影を投げかけた。殊にその時代の人々は、そんなことを忌《い》み嫌うの念が強かったので、縁起が
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング