かりでもあるので、婿の平蔵にそっと耳打ちすると、平蔵も不安らしくうなずいた。
「実は私にも同じことを言いました。医者も取揚げ婆さんも今月の末頃だというのに、当人はどうしても、あしたの日暮れ方だと言い張っているのは、何だかおかしいように思われますが……。」
「そうですねえ。」
九月二十四日の一件が胸の奥にわだかまっているので、その晩はお峰も井戸屋に泊り込んで、あしたの夕方を待つことにした。明くる二十四日は朝からほがらかに晴れて、秋風が高い空を吹いていた。渡り鳥の声もきこえた。
お妻も昼のあいだは別に変ったこともなかったが、いわゆる釣瓶落《つるべおと》しの日が暮れて、広い家内に灯をともす頃、かれは俄《にわ》かに産気づいて、安らかに男の児を生み落した。その予言が見事に適中して人々を驚かせた。
その知らせに驚いて駈けつけて来た産婆にむかって、お妻は訊いた。
「男ですか、女ですか。」
「坊ちゃんでございますよ。」と、産婆は誇るように言った。
「そうですか。」と、お妻はほほえんだ。「早くあっちへ連れて行ってください。おっ母さんもあっちへ行って……。」
男の児の誕生に、一家内が浮かれ立っている隙《すき》をみて、お妻はこの世に別れを告げた。いつの間に用意してあったのか知らないが、かれは聖柄《ひじりづか》の短刀で左の乳の下をふかく突き刺していた。もう一つ、人々に奇異の感を懐《いだ》かせたのは、これもいつの間にか拵えてあったと見えて、かれは新しい経帷子を膝の下に敷いていたので、その鮮血《なまち》が白い衣を真っ紅に染めていた。
その秘密を知っている者は、母のお峰だけであった。
「その時に生れた男の児が私の伯父で、今も達者でいます。」と、吉田君は言った。「そのお妻という女――すなわち私の曽祖母《ひいばあ》さんに当る人が、子供を生むと同時に自殺したので、井戸屋の家にまつわる一種の呪いが消滅したとでもいうのでしょうか。前にもお話し申す通り、今まで決して実子の育たなかった家に、お妻の生んだ子だけは無事に生長したのです。それが嫁を貰って、男の児ふたりと女の児ひとりを儲け、これもみなつつがなく成人しました。次男がわたしの父で、親戚の吉田という家を相続することになったので、わたしも吉田の姓を継いでいるわけです。本家は井戸の姓を名乗って、その子孫もみな繁昌しています。こんにちの我れわれから観
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