主人ばかりでなく、店の者も鯉を食わなかった。実際あの大きい鯉の傷ついた姿を見せられては、すべての鯉を食う気にはなれなくなったと、梶田さんは少しく顔をしかめて話した。
「そこで、その弥三郎と文字友はどうしました。」と、私たちは訊いた。
「いや、それにも話がある。」と、老人は話しつづけた。
 桃井弥三郎は測らずも一両の金を握って大喜び、これも師匠のお蔭だというので、すぐに二人づれで近所の小料理屋へ行って一杯飲むことになった。文字友は前にもいう通り、女の癖に大酒飲みだから、いい心持に小半日も飲んでいるうちに、酔ったまぎれか、それとも前から思召《おぼしめし》があったのか、ここで二人が妙な関係になってしまった。つまりは鯉が取持つ縁かいなという次第。元来、この弥三郎は道楽者の上に、その後はいよいよ道楽が烈しくなって、結局屋敷を勘当の身の上、文字友の家へころげ込んで長火鉢の前に坐り込むことになったが、二人が毎日飲んでいては師匠の稼ぎだけではやりきれない。そんな男が這入り込んで来たので、いい弟子はだんだん寄付かなくなって、内証は苦しくなるばかり、そうなると、人間は悪くなるよりほかはない。弥三郎は芝居で見る悪侍をそのままに、体《てい》のいい押借やゆすりを働くようになった。
 鯉の一件は嘉永六年の三月三日、その年の六月二十三日には例のペルリの黒船が伊豆の下田へ乗り込んで来るという騒ぎで、世の中は急にそうぞうしくなる。それから攘夷論が沸騰して浪士らが横行する。その攘夷論者には、勿論まじめの人達もあったが、多くの中には攘夷の名をかりて悪事を働く者もある。
 小ッ旗本や安《やす》御家人の次三男にも、そんなのがまじっていた。弥三郎もその一人で、二、三人の悪仲間と共謀して、黒の覆面に大小という拵え、金のありそうな町人の家へ押込んで、攘夷の軍用金を貸せという。嘘だか本当だか判らないが、忌《いや》といえば抜身を突きつけて脅迫するのだから仕方がない。
 こういう荒稼ぎで、弥三郎は文字友と一緒にうまい酒を飲んでいたが、そういうことは長くつづかない。町方の耳にもはいって、だんだんに自分の身のまわりが危くなって来た。浅草の広小路に武蔵屋という玩具《おもちゃ》屋がある。それが文字友の叔父にあたるので、女から頼んで弥三郎をその二階に隠まってもらうことにした。叔父は大抵のことを知っていながら、どういう料簡か、素直に承知してお尋ね者を引受けた。それで当分は無事であったが、その翌年、すなわち安政元年の五月一日、この日は朝から小雨が降っている。その夕がたに文字友は内堀端の家を出て広小路の武蔵屋へたずねて行くと、その途中から町人風の二人づれが番傘をさして付いて来る。
 脛に疵もつ文字友はなんだか忌な奴らだとは思ったが、今更どうすることも出来ないので、自分も傘に顔をかくしながら、急ぎ足で広小路へ行き着くと、弥三郎は店さきへ出て往来をながめていた。
「なんだねえ、お前さん。うっかり店のさきへ出て……。」と、文字友は叱るように言った。
 なんだか怪しい奴がわたしのあとを付けて来ると教えられて、弥三郎もあわてた。早々に二階へ駈けあがろうとするのを、叔父の小兵衛が呼びとめた。
「ここへ付けて来るようじゃあ、二階や押入れへ隠れてもいけない。まあ、お待ちなさい。わたしに工夫がある。」
 五月の節句前であるから、おもちゃ屋の店には武者人形や幟がたくさんに飾ってある。吹流しの紙の鯉も金巾《かなきん》の鯉も積んである。その中で金巾の鯉の一番大きいのを探し出して、小兵衛は手早くその腹を裂いた。
「さあ、このなかにおはいりなさい。」
 弥三郎は鯉の腹に這い込んで、両足をまっすぐに伸ばした。さながら鯉に呑まれたかたちだ。それを店の片隅にころがして、小兵衛はその上にほかの鯉を積みかさねた。
「叔父さん、うまいねえ。」と、文字友は感心したように叫んだ。
「しっ、静かにしろ。」
 言ううちに、果してかの二人づれが店さきに立った。二人はそこに飾ってある武者人形をひやかしているふうであったが、やがて一人が文字友の腕をとらえた。
「おめえは常磐津の師匠か。文字友、弥三郎はここにいるのか。」
「いいえ。」
「ええ、隠すな。御用だ。」
 ひとりが文字友をおさえている間に他のひとりは二階へ駈けあがって、押入れなぞをがたびしと明けているようであったが、やがてむなしく降りて来た。それから奥や台所を探していたが、獲物《えもの》はとうとう見付からない。捕り方はさらに小兵衛と文字友を詮議したが、二人はあくまで知らないと強情を張る。弥三郎はひと月ほど前から家を出て、それぎり帰って来ないと文字友はいう。その上に詮議の仕様もないので捕り方は舌打ちしながら引揚げた。

 ここまで話して来て、梶田さんは私たちの顔をみまわした。
「弥三郎はどうなったと思います。」
「鯉の腹に隠れているとは、捕り方もさすがに気がつかなかったんですね。」と、わたしは言った。
「気がつかずに帰った。」と、梶田さんはうなずいた。「そこでまずほっとして、小兵衛と文字友はかの鯉を引っ張り出してみると、弥三郎は鯉の腹のなかで冷たくなっていた。」
「死んだんですか。」
「死んでしまった。金巾の鯉の腹へ窮屈に押込まれて、又その上へ縮緬やら紙やらの鯉をたくさん積まれたので窒息したのかも知れない。しかも弥三郎を呑んだような鯉は、ぎっしりと弥三郎のからだを絞めつけていて、どうしても離れない。結局ずたずたに引破って、どうにかこうにか死骸を取出して、いろいろ介抱してみたが、もう取返しは付かない。それでもまだ未練があるので、文字友は近所の医者を呼んで来たが、やはり手当の仕様はないと見放された。水で死んだ人を魚腹《ぎょふく》に葬られるというが、この弥三郎は玩具屋の店で吹流しの魚腹に葬られたわけで、こんな死に方はまあ珍しい。
 龍宝寺のあるところは今日《こんにち》の浅草栄久町で、同町内に同名の寺が二つある。それを区別するために、一方を天台龍宝寺といい、一方を浄土龍宝寺と呼んでいるが、鯉の一件は天台龍宝寺で、この鯉塚は明治以後どうなったか、わたしも知らない。」
 若い者と付合っているだけに、梶田さんは弥三郎の最期《さいご》を怪談らしく話さなかったが、聴いている私たちは夜風が身にしみるように覚えた。
[#地から2字上げ]昭和十一年四月作「サンデー毎日」



底本:「鎧櫃の血」光文社文庫、光文社
   1988(昭和63)年5月20日初版1刷発行
   1988(昭和63)年5月30日2刷
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年6月2日作成
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