湯気がもやもやと籠っていて、電燈のひかりも陰っている。なにしろ午前二時という頃だから、おそらく誰もはいっている気遣いはないと思って、僕は浴衣をぬいで湯風呂の前へすたすたと歩いて行くと、大きい風呂のまん中に真っ白な女の首がぼんやりと浮いてみえた。今頃はいっている人があるのかと思いながらよく見定めると、それは児島亀江の顔に相違ないので、僕も少し躊躇したが、もう素っぱだかになってしまったもんだから、御免なさいと挨拶しながら遠慮なしに熱い湯の中へずっとはいると、どういうものか僕は急にぞっと寒くなった。と思うと、今まで湯の中に浮いていた女の首が俄かに見えなくなってしまった。ねえ、僕でなくっても驚くだろう。僕は思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声をあげそうになったのをやっとこらえて、すぐに湯から飛び出して、碌々にぬれた身体も拭かずに逃げて来たんだが、どう考えてもそれが判らない。けさになって見ると、児島亀江という女は平気であさ飯を食っている。いや、僕の見違いでない、たしかにあの女だ。たといあの女でないとしても、とにかく人間の首が湯の中にふわふわと浮いていて、それが忽ちに消えてしまうという理屈がない
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