なると、虎の姿はどこにも見付からない。有名な岸駒《がんく》の虎だって画で見るばかりだ。芝居には国姓爺《こくせんや》の虎狩もあるが、これも縫いぐるみをかぶった人間で、ほん物の虎とは縁が遠い。そんなわけだから、世界を江戸に取って虎の話をしろというのは、俗にいう『無いもの喰おう』のたぐいで、まことに無理な注文だ。」
「しかしあなたは物識りですから、何かめずらしいお話がありそうなもんですね。」
「おだてちゃあいけない。いくら物識りでも種のない手妻《てづま》は使えない。だが、こうなると知らないというのも残念だ。若い人のおだてに乗って、まずこんな話でもするかな。」
「ぜひ聴かせてください。」と、青年は手帳を出し始める。
「どうも気が早いな。では、早速に本文《ほんもん》に取りかかる事にしよう。」と、老人も話し始める。
「これは嘉永四年の話だと思ってもらいたい。君たちも知っているだろうが、江戸時代には観世物がひどく流行《はや》った。東西の両国、浅草の奥山をはじめとして、神社仏閣の境内や、祭礼、縁日の場所には、必ず何かの観世物が出る。もちろん今日《こんにち》の言葉でいえばインチキの代物《しろもの》が多い
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