だから、相当の値段で売ってもいいということになった。
 しかしその相場がわからない。興行師の方ではなるたけ廉く買おうとして、まず三両か五両ぐらいから相場を立てたが、漁師たちにも慾があるから素直に承知しない。だんだんにせり上げて十両までになったが、漁師たちはまだ渋っているので、友蔵兄弟は思い切って十二両までに買い上げると、漁師たちもようよう納得しそうになった。と思うと、その横合いから十五両と切出した者がある。それは奥山に、定小屋を打っている由兵衛という興行師であった。友蔵たちは十二両が精いっぱいで、もうその上に三両を打つ力はなかったので、鯨はとうとう由兵衛の手に落ちてしまった。」
「兄弟は鼻を明かされたわけですね。」
「まあ、そうだ。それだから二人は納まらない。由兵衛は漁師たちに半金の手付を渡し、鯨はあとから引取りに来ることに約束を決めて、若い者ひとりと共に帰って来る途中、高輪の海辺の茶屋の前へさしかかると、そこに友蔵兄弟が待っていて、由兵衛に因縁をつけた。漁師たちが十二両でも承知しなかったものを、由兵衛が十五両に買い上げたのならば論はない。しかし十二両で承知しそうになった処へ、横合いから十五両の横槍を入れて、ひとの買物を横取りするとは、商売仲間の義理仁義をわきまえない仕方だというのだ。成程それにも理屈はある。だが、由兵衛も負けてはいない。なんとか彼とか言い合っている。
 そのうちに口論がだんだん激しくなって、友蔵が『ひとの買物を横取りする奴は盗人《ぬすっと》も同然だ』と罵ると、相手の由兵衛はせせら笑って、『なるほど盗人かも知れねえ。だが、おれはまだ人の女を盗んだことはねえよ』という。それを聞くと、友蔵はなにか急所を刺されたように急に顔の色が悪くなった。そこへ付け込んで由兵衛は、『ざまあ見やがれ。文句があるなら、いつでも浅草へたずねて来い』と勝閧をあげて立去った。」
「そうすると、友蔵にも何かの弱味があるんですね。」
「その訳はあとにして、鯨の一件を片付けてしまうことにしよう。鯨はとどこおりなく由兵衛の手に渡って、十三日からいよいよ奥山の観世物小屋に晒《さら》されることになったが、これはインチキでなく、確かに真物《ほんもの》だ。殊に鮫洲の沖で鯨が捕れたということは、もう江戸じゅうの評判になっていたので、初日から観客はドンドン詰めかけて来る。奥山じゅうの人気を一軒でさらった勢いで、由兵衛も大いに喜んでいると、三日ばかりの後には肝腎の鯨が腐りはじめた。
 むかしの四月なかばだから、今日《こんにち》の五月中旬で陽気はそろそろ暑くなる。あいにく天気つづきで、日中は汗ばむような陽気だから堪らない。鯨は死ぬと直ぐに腐り出すということを由兵衛らは知らない。もちろん防腐の手当なぞをしてある訳でもないから、この陽気で忽ちに腐りはじめて、その臭気は鼻をつくという始末。物見高い江戸の観客もこれには閉口して、早々に逃げ出してしまうことになる。その評判がまた広まって、観客の足は俄に止まった。
 こうなっては仕方がない。鯨よりも由兵衛の方が腐ってしまって、何か他のものと差換えるあいだ、ひとまず木戸をしめることになった。十五両の代物を三日や四日で玉無しにしたばかりか、その大きい鯨の死骸を始末するにも又相当の金を使って、いわゆる泣きッ面に蜂で、由兵衛はさんざんの目に逢った。十両盗んでも首を斬られる世の中に、十五両の損は大きい。由兵衛はがっかりしてしまった。」
「まったく気の毒でしたね。」
「それを聞いて喜んだのは友蔵と幸吉の兄弟で、手を湿《ぬ》らさずに仇討が出来たわけだ。かんがえてみると、由兵衛はかれら兄弟の恩人で、自分たちの損を受けてくれたようなものだが、兄弟はそう思わない。ただ、かたき討が出来たといって、むやみに喜んでいた。それが彼らの人情かも知れない。
 ここで関係者の戸籍調べをして置く必要がある。由兵衛は浅草の山谷《さんや》に住んでいて、ことし五十の独り者。友蔵は卅一、幸吉は廿六で、本所の番場町、多田の薬師の近所の裏長屋に住んでいる。幸吉はまだ独り身だが、兄の友蔵には、お常という女房がある。このお常に少し因縁がある。」
「以前は由兵衛の女房だったんですか。」
「いつもながら君は実に勘がいいね。表向きの女房ではないが、お常は奥山の茶店に奉公しているうちに、かの由兵衛と関係が出来て、毎月幾らかずつの手当を貰っていた。お常はまだ廿二だから、五十男の由兵衛を守っているのは面白くない。おまけに浮気の女だから、いつの間にか友蔵とも出来合って、押掛女房のように友蔵の家へころげ込んでしまった。
 由兵衛は怒ったに相違ないが、自分の女房と決まっていたわけでもないから、表向きには文句をいうことも出来なかった。しかし内心は修羅《しゅら》を燃やしている。鮫洲の鯨を横取りしたの
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