た末に、小芝居出勤も差支えなしという事に変更されたのである。源之助は四、五年早かったがために、この規約に触れて大阪落の身となったのは、その心柄とはいいながら一種の不運でないとはいえなかった。大阪へ下ってからも、勿論相当の位地を占めていたのであろうが、その消息は東京へ伝えられなかった。彼は元来、上方向きの俳優ではなかった。
 明治二十九年の十一月に彼は帰京した。最初は市村座に出勤し、次に歌舞伎座や明治座にも出勤したが、とかく一つ所に落付かないで、浅草公園の宮戸座等にもしばしば出勤していたので、自ずと自分の箔を落してなんだか大歌舞伎の俳優ではないように認められるようになった。大阪における五、六年間の舞台生活はどうであったか、私たちは一向知らないのであるが、帰京後の彼は団十郎や菊五郎の相手たるに適しなくなったらしい。団菊も彼を相手にするを好まず、彼も団菊の相手となるを喜ばず、両者の折合が付かなくなった上に、もうその頃は、中村福助(今の歌右衛門)が歌舞伎座の立おやまたるの位地を固め、尾上栄三郎(後の梅幸)も娘形として認められ、年増役には先代の坂東|秀調《しゅうちょう》が控えているという形勢となっているので、帰り新参の源之助を容《い》るる余地もなかったのである。こうして、彼は次第に大歌舞伎から逐《お》わるるような運命に陥った。
 今日、一部の劇通に讚美せらるる「女定九郎」や、「鬼神お松」や、「うわばみお由」や、「切られお富」のたぐいは、みなこれ宮戸座の舞台における源之助の置土産である。帰京以後の彼は、大歌舞伎の舞台に殆ど何らの足跡を残していない。
 彼が後半生の不振に就ては、大阪落が第一の原因をなしていること前記の如くである。更に有力の原因は、その芸風が明治末期の大劇場向きでないということに帰着するらしい。要するに、彼はあまりに江戸歌舞伎式の芸風であるために、明治の初年はともあれ、明治末期または大正昭和の大劇場には不向きの俳優となって仕舞ったらしい。前に挙げた「女定九郎」や、「鬼神お松」や、「うわばみお由」のたぐいは、大歌舞伎の出し物でない。しかも彼はそれらを得意としているのであるから、自然に大歌舞伎から遠ざかるのも無理はなかった。もう一つは、なんといっても大歌舞伎の楽屋は規則正しく、万事が窮屈である。彼はその窮屈をも好まなかったらしい。
 かつては自分の相手方であった団菊左の諸名優も相次いで凋落《ちょうらく》し、後輩の若い俳優らが時を得顔に跋扈《ばっこ》しているのを見ると、彼はその仲間入りをするのを快く思わなかったかも知れない。寧《むし》ろ宮戸座あたりの小芝居に立籠《たてこも》って、気楽に自分の好きな芝居を演じている方が、ましであると思っていたかも知れない。他人の眼からは不遇のように見えても、本人はそれに甘んじていたのかも知れない。
 しかも女形として五十の坂を越えると、彼も前途を考えなければならなかった。彼は大正の初年から松竹興行会社の専属となって、会社の命ずるままに働いていた。彼は幾何《いくばく》の給料を貰っていたか知らないが、舞台の上では定めて役不足もあったろうと察せられて、その全盛時代を知っている私たちには、さびしく悼《いた》ましく感じられることも少くなかった。
 立役と違って、女形は年を取ってはいけませんと、梅幸は述懐していたが、源之助も女形であるために晩年の不遇が更に色濃く眺められたらしい。最近五、六年は舞台に出ているというも名ばかりで、あってもなくても好いような取扱いを受けていたが、彼は黙って勤めていた。いっそ隠退したらよかろうにと思われたが、やはり舞台に出ていることが好きであるのか、あるいは経済上の都合があるのか、彼はとうとう仆《たお》れるまで、舞台の人となっていた。
 盛者必衰は免かれ難い因果とはいいながら、団菊左の諸名優を相手にして、「弁天おてる」や三千歳を演じていた青年美貌の俳優が、こうした蕭条《しょうじょう》の終りを取ろうとは――。私も自分の影をかえりみて、暗い心持にならざるを得ない。



底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「読書感興」
   1936(昭和11)年7月号
初出:「読書感興」
   1936(昭和11)年7月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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