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(六郎兵衞は先に立ちて、權三の家の縁に腰をかける。)
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六郎 して、おまへさんはどこのお人だね。
彦三郎 大坂からまゐりました。
六郎 大坂からわたしを尋ねて……。では、もしや彦兵衞さんの……。
彦三郎 はい。わたくしはこのお長屋で長年お世話樣になりました小間物屋彦兵衞のせがれ彦三郎と申す者でござります。
六郎 あゝ、彦兵衞さんの息子かえ。(急に顏色を曇らせる。)遠いところをよく出て來なすつた。
彦三郎 (これも聲を曇らせる。)もし、お家主樣。父の彦兵衞はまつたく牢死いたしたのでござりますか。
六郎 いや、どうもお氣の毒なことで、今更なんとも云ひやうがない。手紙にも書いてあげた通り、彦兵衞さんは去年の暮にお召捕になつて、その御吟味中に病氣が出て、この三月に……。(鼻を詰まらせる。)たうとう御牢内で歿《なくな》りましたよ。
彦三郎 その節は色々御厄介になりまして、お禮の申上げやうもござりません。まことに有難うござりました。(涙ながらに手をつく。)御手紙によりますと、父は馬喰町《ばくろちやう》の米屋といふ旅籠屋《はたごや》の隱居所へ忍び込み、六十三歳になる女隱居を殺害して、金百兩をうばひ取つたと申すことでござりますが、それは本當でござりますか。
六郎 (氣の毒さうに。)さあ、彦兵衞さんに限つてそんな事のあらう筈はないと思つてゐたが、御奉行所の嚴しいお調べで本人はたうとう白状したと云ひますよ。
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(上のかたより權三はぶら/\出で來り、この體をみて少し躊躇《ちうちよ》し、やがて拔足をして家のうしろを廻り、下のかたの柳の下に立つて聽いてゐる。)
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彦三郎 それがどうしても本當とは思はれません。わたくしの父は盜みを働くやうな、まして人を殺して金をぬすむやうな、そんな不義非道の人間ではござりません。あまりに御吟味がきびしいので、身におぼえのないことを申立てたのかも知れません。(だん/\激して來る。)もし、おまへ樣。いづれにしてもこれは何かの間違ひに相違ござりません。屹《きつ》と何かの間違ひでござります。
六郎 息子のおまへさんがさう思ひつめるのも無理はないが、この一件
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