い。高輪から人力車に乗って急がせて来ると、金杉の通りで車夫は路ばたに梶棒《かじぼう》をおろした。
「旦那、ちょいと待ってください。そこで蝋燭を買って来ますから。」
こう言って車夫は、そこの荒物屋へ提灯の蝋燭を買いに行った。荒物屋――昼間のおかみさんのことを思い出しながら、彼は車の上から見かえると、自分の車から二間ほど距《はな》れた薄暗いところに一人の婆さんが立っていた。それを一と目みると、彼はもう夢中で車から飛び降りて、新橋の方へ一目散に逃げ出した。
師匠の家は根岸だ。とてもそこまで帰る元気はないので、彼は賑やかな夜の町を駈け足で急ぎながら、これからどうしようかと考えた。かのばあさんはあとから追って来るらしくもなかったが、彼はなかなか安心できなかった。三十間堀の大きい船宿に師匠をひいきにする家がある。そこへ行って今夜は泊めて貰おうと思いついて、転げ込むようにそこの門《かど》をくぐると、帳場でもおどろいた。
「おや、どうしなすった。ひどく顔の色が悪い。急病でも起ったのか。」
実はこういうわけだと、息をはずませながら訴えると、みんなは笑い出した。そこに居あわせた芸者までが彼の臆病を笑った。しかし彼にとっては決して笑いごとではなかった。その晩はとうとうそこに泊めてもらうことにして、肝腎の月の出るころには下座敷の蚊帳《かや》のなかに小さくなっていた。
あくる朝、根岸の家へ帰ると、ここでも皆んなに笑われた。あんまり口惜しいので、もう一度出直して御徒町へ行って、近所の噂を聞いてみると、かの貸家には今まで別に変ったことはない。変死した者もなければ、葬式の出たこともない。今まで住んでいたのは質屋の番頭さんで、現に同町内に引っ越して無事に暮らしている。しかしその番頭の引っ越したのは先月の盂蘭盆前で、それから二、三日過ぎて迎い火をたく十三日の晩に、ひとりの婆さんがその空家へはいるのを見たという者がある。
その婆さんはいつ出て行ったか、誰も知っている者はなかったが、その後ときどきに、そのばあさんの坐っている姿をみるというので、家主の酒屋でも不思議に思って、店の者四、五人がその空家をしらべに行って、戸棚をあらため、床の下までも詮索したが、なんにも怪しいものを発見しなかった。
そんな噂がひろがって、その後は誰も借り手がない。そうして、その空家には時どきにそのばあさんの姿がみえる。
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